あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

福島での読み聞かせ実習

大学の授業の一環で、南相馬市の小学校に通う子供たちに紙芝居の読み聞かせをしてきました。何の気なしに取った授業、「こどもたちかわいいだろうな」くらいの動機で行くことを決めた実習。そこで私が経験したのは感情の嵐でした。

 

被災地の光景

汚染物質が入ってあるであろう大きな黒いビニール袋が山のように積まれている土地、かつては人が住んでいたであろう廃屋、人気のない街、震災後に建設されたであろう新しい集合住宅の数々、「この区間2輪車通行禁止」の表示、9年前に連日ニュースで目にした「楢葉」「双葉」「富岡」などの地名。

 

ここは「福島」だ。

原発事故の影響を、今もなお、受け続けている土地だ。

 

これまで被災地には何度か赴いたことはありましたが、原発事故の影響を受けた土地を訪れたのはこれが初めてのことでした。町が寂しい。人が少ない。このイメージを抱くことが正しいかどうかもわかりません。そんなネガティブイメージを持つことで、福島を偏った見方で見てしまっているような気がして怖かった。自分がいままで持っていた福島のイメージに沿うようにして、光景を解釈しようとしているのかもしれないと。何が正しくて、どうしたら誰も傷つけないで福島に対する感情を表現すればいいのかわからないけど、とにかく私が小学校に行く途中のバスで感じたのは、猛烈な「寂しさ・暗さ」でした。

 

負の印象を抱くこと

やはり、震災の当事者ではなかった私たちが「被災地」特に「福島」という言葉を耳にすると、頭に浮かんでしまうのは負の印象です。津波が来て、原発事故が起きて、たくさんの人がいろんなところに避難して、今も家に帰ることが叶わない人がいる。そういうイメージを持ってしまっている場所。そうした負のイメージが固定化されていて、私たちはそこからなかなか抜け出すことが出来ない。だから私はバスの中で「寂しさ・暗さ」を感じていたのかもしれません。

でもその認識は本当に正しいのでしょうか。報道で得た情報ばかりが私たちの頭の中を占領して、目の前の現実を正確に感じとれないことは多々あります。今回もそうなってはいないだろうかと自問自答してみる。もっと希望が見える場所があるのかもしれないし、私の「寂しさ・暗さ」のイメージは独り歩きしすぎているかもしれない。自分の今感じている感情をちゃんと疑ってみること。

 

私は辛い話をなぜ聞きに行くのか

私は、なぜだか自分がここに行ったらつらい体験談聞くだろう、そしてそのどうにもならなさに心を搔き乱されるだろう、そう分かっていながら、その地に赴く傾向があると今回初めて気が付きました。私が「ボランティア」とか「支援」とかそうした活動を始めたのは高校1年生の時。それからもう一度宮城に行って、カンボジアに行って、フィリピンに行って、こども食堂でもお手伝いするようになって、そして今回福島に行って。(もちろんこれまでたくさん手を伸ばすことのできなかった災害や貧困もたくさんあります。熊本の震災、北海道の震災、西日本の豪雨、鬼怒川の氾濫、今年の秋の二つの大きな台風、)

 

おそらくこうした一連の行動の原体験は、初めてのボランティア活動をした高校1年生の時のあの言葉。

「きっと今回の体験は日常に戻ったら忘れると思うんだけど、忘れないでほしい。まだ5年たっても復興は終わっていないことを頭に残して帰ってほしい。そしてまた来てほしい。」

 

そのボランティアでは震災復興の直接のボランティア(みんなが想像しやすいようなぼ泥の掻き出しとか炊き出しとか)というより、お祭りのお手伝いをしたり、被害がひどかった地域を語り部さんと一緒にまわったり、震災後に新たに始まった農場の見学に行ったりというような、「体験」の意味合いが強いものでした。「被災地のために何か力になった」という実感よりも、「被災地という場所を、初めてちゃんと自分の目で確かめることができた」という実感の方が強かったように思えます。

 

その時受けた最大の衝撃は「私は何も知らなかった。」ということ。

 

ここでどんなことが起きて、人々はどんな怖い思いをしたのか。そのあとどんな生活をして、今どんな思いで暮らしているのか。あの時のボランティアを通してその一部のはじめて触れることができたし、自分の無知を知って、見ない振りしないでちゃんと向き合いたいと思った。大変な思いをしている人たちと。

まだたくさん苦しんでいる人がいること。それを私は忘れないこと。知らないことにしないこと。帰りの夜行バスの中で、そんなことが頭の中をぐるぐるめぐって、そうしているうちにどんどん被災地は遠くなって、自分の家が近づいて。それと一緒に「非日常」が遠ざかって、「日常」の色が濃くなって。そんな目まぐるし風景の変化と心の変化。たくさん感じたものを忘れたくなくて、忘れるものかと思っているのに、いつの間にか薄れてしまっていく恐怖に対して、16歳の私はどうすることもできませんでした。

 

その中で私が唯一出来たのは、「また被災地に行くこと」でした。

知らないことにしない。忘れない。ちゃんとまたここに来る。これをすることは私にとってはとても難しいこと。やっぱり日々生活していると、自分の生活のことで頭がいっぱいになってしまうから。だからまたここに来て、ちゃんと自分の中に取り入れる。考えることをやめない。

 

 

この言葉はこどもたちに届いているかな

今回の実習は、普段から南相馬で小学生向けに読み聞かせを開催している「おはなしのへや」という活動に、私たち大学生が加わるという形のものでした。おはなしのへやスタッフが取り上げる作品はどれも、すてきなメッセージを放つものでした。絵本って大きなメッセージをたくさん内包しているけど、このメッセージを彼らはどれだけ受け取ってくれているのだろうと想像していました。

 

おかあさん、ありがとうのメッセージ。

毎日がタカラモノのメッセージ。

貧富の格差と人を想う心のメッセージ。

 

どれも大学生になった今の私だから胸に響く物語で、果たしてこれを小学校低学年の時に聞いていたらどんなことを感じていたのかな。「ふーん」の一言で終わっちゃうんじゃないかな。

さいころおそらくたくさんの物語を見聞きしていたはずです。それは母親から読み聞かせてもらったり、それこそ保育園や小学校でのこうした読み聞かせの時間を通じてだったり。でもほとんどの物語は覚えていません。なんだかそれって悲しいなぁと感じます。

でもそうした覚えていない物語は、もしかしたら今の私の体とか心のどこか一部分を形成しているのかもしれない。もしかしたら今日読んだ紙芝居が、30人ほどいた子たちの中のたった一人の子かもしれないけど、数少ない「記憶に残る物語」として大きくなっても覚えてくれているかもしれない。

この体験をあの子たちがどう捉えるかはわからない。でも心のどこかに残ってくれたらいいなと思って。

 

たくさんの体験談 

おはなしのへやスタッフが書いてきてくださった次の劇の台本は、私にとっては刺激が強すぎるものでした。

それぞれの方々の震災から現在の物語。

大きな揺れ、子供の泣き声、実現しなかった「また明日ね」、どろどろでも生きて帰ってきてくれたおじいちゃん、避難所での生活、繰り返される引っ越し。

 

何よりも、この台本を手に取ったスタッフの方の「涙なしには読めないもんね。一気に読めないもんね。」というお言葉が、とても印象的でした。私は、心苦しいと感じながらも涙を流さずに読めてしまう。大きな壁を感じずにはいられませんでした。どんなに私がこの体験談を聞いて、相手を慮ってつらい気持ちになっても、完全に相手の気持ちを理解することは出来ない。いくら想像力を働かせたところで、私はその悲しみを彼女たちのように受け取ることが出来ない。それならそもそも私は、一緒に悲しむことは許されないのではないだろうか。被害を受けていない私は、痛みを理解することのできない私は、彼女たちに寄り添うことは出来ないんじゃないか。

 

それなら私たちが出来ることってなんだろう。

自分がもしそんな大変な目にあったら、周りの人にどう接してほしいだろう。

そんなことを考えながら、でもやっぱり答えは出ないまま、きっとこれもこの先ずっと考え続ける問いなのでしょう。

 

危ぶまれる継続性

今回の読み聞かせの実習は大学の授業の一環として行きました。この授業で行く実習は、国からの復興事業の予算から出ているというお話を聞いていました。しかしながら震災から8年が経った現在、そうした予算も徐々に縮小しつつあり、そうした審査も厳しくなり、予算が縮小するということは実習に行ける機会も徐々に減ってしまいます。そうした中で、今まで通りのような活動ができなくなってしまったり、場合によってはこうした実習がなくなってしまったりする可能性は十分にあります。

この実習って「行きたいです」って言ったら誰でも行ける、本当に気軽なものなんです。平日なら公欠扱いにしてくれるし、かかる費用は全部大学側が負担してくれるし。大学の中に未だに存在する、「行きたいと思えば被災地に行ける」という仕組みがなくなることに危機感を感じます。

被災地が遠くなること。私のように被災地に行くことによって自分の考えが揺るがされたり、何かしたいと思ったりする人の可能性が減らされてしまうこと。それはどうなんだろうか。この先日本を担っていく世代は、ちゃんとこんな場所があることを心に留めて、自分たちには何ができるのかを考えるきっかけを与えてほしいと感じました。

このようなプログラムがなくても、自分が行く気になれば福島に行くことは出来ます。でもそのきっかけを掴めていない人が大半です。行くことは出来たとしても、地域の人たちとのつながりがなければ、そこで体験を聞いたり自分たちの方から読み聞かせの空間を作ることは非常に難しいことです。これではせっかくその場所に行ったのに、その意味が半減してしまう。

多くの人々にとって、現地に行くというのはとても大きなハードルだと思うんです。でもそのハードルを跳び越える価値は絶対にあるし、そのハードルを少しでも下げることはハードルを跳び越えられる人と増やすという意味で非常に意義のあることだと思うんです。

だから、来年もその先もこの活動がちゃんと継続していけるようになってほしい。

 

抱えきれない事の重さ

家に帰って何度も思い返すたくさんの光景。

無邪気な子供たち、暗い顔をした子供たち、たくさん積まれた黒いビニール袋、廃屋、おはなしのへやスタッフの悲しい体験談。

思い返すたびに心が沈み、この文章を打ちながら自分の「何もできなさ」にへこみます。現時点の私に出来ることはおそらく、こんなものを見た、こんなことを感じたというのを自分の中でゆっくりとかみ砕いたり、出来ることなら誰かに伝えたりすること。もう少し頑張るなら、また被災地に赴くことなのかと思っています。

こうした態度が被災地支援において正解かどうかなんて私にはわからない。おそらくきっと誰にも分らないし、正解なんかない。みんなそんな世界の中で、自分なりの正解を求めながら生きているんだと思います。

私だけでは抱えきれない。でも知ってしまったからには、自分に何か出来ることがあるならば、その「何か」をするしかない。

 

いつ起きるかわからない

災害は日常にどすん。と落ちてくる。

私たちは毎日一瞬一瞬「次の瞬間死ぬ可能性がある」なんて思うことは出来ません。特に私のような若造は、この先何十年も当たり前のように自分の未来は存在していることを信じ切っています。

 

でもそんな未来が裏切られるときもある。

明日もその先もずっと家族が一緒に暮らせるとは限らない。大切な人が生きているとは限らない。家がそこにあるとは限らない。今の暮らしは「当たり前」のものでは決してない。いくら言葉では理解していたって、いくらその場ではそう思ったって、こうした感情は実体験を伴わないからすぐにどこかに消えてしまう。事実として私たちは温度の持ったものとしてそれを受けいれることが出来ない。

 

ちゃんと生きたいと思う。自分に嘘をつかないで。多分どんな人生を送ったとしても、災害が起きたときに何かしらは後悔することがあると思う。もっと家族の傍にいたらよかったとか、あの時喧嘩なんてしなければよかったとか。後悔しないなんて難しいことだ。きっと私たち人間には出来ないことだ。

 

それでも、いや、それだからこそ、ちゃんと生きたい。

自分の大切にしたいものを大切にして、1日1日健康に生きていられることに感謝して。後悔しない人生は歩めないかもしれないけど、ちゃんと生きることは今からでもできる。この違いをはっきり説明することは出来ないけど、私の中では少しづつ確立されているから、もう少し言語化できるようになったらしてみたいと思います。