あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

私にとって必要だった「書くこと」

お久しぶりです。

ブログを書かなくなってから4か月が経ちました。

4か月たった今の心境を書いてみようかと思い、画面に向かっています。

 

「書くこと」は考えることだった

ブログを書かなくなって、物事を深く考えることが減りました。それはもしかしたらブログを書かなくなったことだけが要因ではないかもしれないけれど。毎日何にも考えずとも日々は過ぎていって、ふんわりと1日1日が終わっていく。これがいいのか悪いのかはよくわからないけど、頭のどこかからか「こんなぼんやり時間が過ぎていっていいのだろうか」という声が聞こえてきます。

ブログを書いていた時代は、5日に1回は自分の考えをまとめて発信していたわけなので、それなりに常に何かを考えていました。今はその必要がなくなってしまったので、「私」という殻だけが生きているような感覚です。

 

「書くこと」は吸収することだった

書くことによって、得るものも多かったように思えます。嬉しいことに私の書いたことに対して共感してくれたり意見を述べてくれたりする人もたくさんいらっしゃいました。書くために積極的にいろいろなイベントに参加したり、自分の興味のある分野の人にお話を聞きに行ったりもしました。今もその好奇心がなくなったわけではないけど、以前と比べたら少なくなったように思えます。

吸収する意欲が半減した今、無為な時間を過ごしている感覚がずっと私の周りにまとわりついています。何をしても、自分の身になっている感じがしなくて、少し寂しい。

 

「書くこと」は整えることだった

私は日々、ほかの人よりも感情的に生きているので、感情があふれ出すことが多々あります。いい感情もよくない感情も。その感情の根源を自分の中で整理して、「なんで私は今こんなに悲しくなっているのだろう、いやな気持ちになっているのだろう」ということを整理することにも、書くことを使っていたことに最近気づきました。

自分と向き合うために書くことを使っていたことにも気づきました。

 

「書くこと」を再開します

やっぱり私は、

常に考える存在でありたい。

吸収し続ける存在でありたい。

大木のような存在でありたい。

 

そのためには書くことが必要でした。

週末に1記事を目標に書いていこうと思います。

 

 

ですがこれからは、匿名でひっそりと書いていこうと考えています。

また「高田夏子」として文章を書く自信がついたら、この場所に戻ってくるので、それまで楽しみにしていてください。

情報再考

現代社会は「情報社会」と呼ばれています。

インターネットが世界中をつなぎ、リアルタイムで世界中の人と繋がることがる。それは名前も顔も知らない人であっても。望めば自分からたくさんのことを発信できるし、そのせいでたくさんの情報が世の中に転がっている。たった数個の文字をパネルに打ち込むだけで、私たちは自分の知りたいことに簡単に辿り着けてしまう。そんな世の中に私たちは生きています。

 

 

突然ですが、最近なるべく歩くようにしています。

最近の移動は自転車か車に頼りきり。目的地には早くつくけど、何かを感じたり考えたりする暇もなくあっという間に景色を通り過ぎてしまいます。

移動手段を徒歩に変えて、見える景色も、聞こえる音も、感じる風も、全部違うものになりました。情報というものの定義を明確に理解しているわけではないけど、明らかに早くその道を通り過ぎていた時よりも、情報は多い。

 

ふと情報って必ずしも視覚的に得られる文面だけではないんじゃないかと考えました。

私が普段「情報」として認識しているのは主に誰かが書いた文章。

組織論とか食の安全性に関する記事とかコミュニティに関しての提言とか農業全般に関することとか。それは公式な文章もそうだし、誰かの想いつきのようなつぶやきかもしれないし、はたまた誰かの行き場のない社会に対する憤りなのかもしれない。

電子機器が1台あれば簡単にアクセスできて、簡単にアクセスできるはずなのに私はそれに疎いからあんまりうまく使いこなせてなくて、勝手に「自分は情報弱者だ」とへこんでしまう。

 

私は情報の定義を狭く捉えすぎてはいないだろうか。情報というのはもっと広い意味で使える言葉なんじゃないか。そんな風に思い始めた散歩道です。

 

「東京には人・もの・金・情報が集まる。だから自分は東京に身を置きたい」と考えている人、結構多いんじゃないかと思います。私もかなり強くそう思っていた時期があって、その時期はつくばに住みながらも毎週のように東京に行って、いろんな人に会っていろんなお話を聞いたりして、行くたびに何かしらのつながりを作っていました。そういうことに時間を使っていた時期もある一方で、最近はのんびりしたつくばに籠り、のんびりとした日々を過ごしています。(こういう風に書くとすでに隠居生活を始めた人みたい笑)

 

そうすると今まで見えてこなかったものがたくさん見えてくる。聞こえてこなかったものが聞こえてくる。感じられなかったものが感じられるようになる。

たくさんのことを自分の体で感じている今、情報って今まで思っていたよりももっと広義のものなのかもしれない、ということを感じるようになりました。大学生になってから、いやもっと前から、私は情報社会についていけないと思っていましたが、案外そんなことはなくて、人は感じとれない情報を私は感じ取る能力があるのだからそれはそれでいいのかもなと、おおらかな気持ちになれたり。

上海旅行記

留学するという決意に対する敬意

今回私が上海に旅行に行った一番の理由は、高校時代の友人に会いに行くためだ。高校生の頃は、ずっと部活内で切磋琢磨してギスギスした関係だった彼女。このギスギスというのは、本当は彼女のことを心から尊敬していたのに、若さのあまり素直にその事実を認められなくて、うまく噛み合わなかったことが原因だったと、今になって分かった。しかしながら大学生になってお互いを尊敬し合える仲に成長できた。

そんな彼女が1年位前に上海に留学に行くことを決め、その話を聞いたとき、彼女が留学しているタイミングで絶対に上海に行こうと私も心に決めた。そうでもしないと私はこの先、旅行先として中国という国を選ばないような直感がしたし、高校生の若さと青さが抜けた私と彼女で旅行をしたら絶対に楽しいものになると思った。

 

 

やっぱり私にとって彼女は、いつまでたっても尊敬するべき人間だった。

 

誰も知らない土地で、母語ではない言葉を使って(しかも英語ではなくて大学から勉強し始めた第二外国語)、親しみのない文化の中で生きていくということ。これは想像以上に大変なことだろうと思った。彼女が現地の人と話して、現地の人と同じような暮らしをしている姿を目の当たりにして、彼女がいろいろな葛藤を抱えながら留学することを決断した勇気に対して、心から敬意を払いたいと自然と感じた。

そんなことを伝えると彼女は少し照れながら「こっちではバイトもしないし、結構時間もあるし楽な生活っちゃ楽な生活よ」というけれども、きっとそんなわけない。少なくとも私の目にはそんな風には映らなかった。簡単には伝わらない言葉を、現地に人に必死に伝えようとしている姿は、決して楽して生きている人間の姿ではないと感じた。

 

本当に使えない

海外旅行で絶対に忘れてはならないものは「財布」「パスポート」「スマホ」であると今まで信じていた。家を出るとき、「あれ持ったっけ?これ持ったっけ?」と心配になった時は、取り敢えずこの3つだけを確認する。そうすると「とりあえずこれがあるから何とでもなるか」と安心できる。

 

しかしながら、中国は想像以上にスマホを使うことが出来ない社会だった。

普段日本で使っているサービスが何も使えない。今まで東南アジア諸国を5か国ほど旅行して、こんなにスマホが使い物にならない場所は初めてだった。今まで行った国ではどちらかというとスマホは生命線であって、宿をとるにも観光地の行き方を調べるのもスマホ。ポケットwi-fiは基本的にレンタルしないため、検索が必要になったら近くのカフェみたいな場所に入って調べてまた出かけるというように使っていた。

 

しかしながら中国国内では、それが全くできない。

本当に今どきこんなにも世界と情報面でつながれない社会が存在することに衝撃を受けた。中国はそういう社会だということは予め知ってはいたが、いざ実際にこの状況に立たされてみると、大きなショックを受ける。

 

スマホがないと何もできない社会

前の章ではスマホが使い物にならないという話をしたけど、現地の人たちは逆にスマホがないと生きていけいない生活をしている。(その点では日本もほとんど一緒かもしれないが)でも日本との圧倒的な違いは決済の部分だ。話に聞いてはいたが、中国はかなりQR決済が普及している。街中の小さい食堂も、バイタク(バイクで短距離を運んでくれるサービス)のおじちゃんも、大学の学食でも、みんな支払いはQR。逆に言えばQR決済を出来る手段を持っていないと、この社会では買い物できない。

現地に住む人はそれでとっても便利かもしれないけど、観光客にはあんまり優しくない仕組みだと感じる。観光客は現金しか使えないのに、あんまり中国国内では現金支払いは歓迎されないらしいし、小さな商店はほどんど現金支払いを取り扱っていないため、観光客はそうしたローカルな場所を訪れようとしても訪れられない。

 

 

 

人との距離の近さ

この旅行中、何度現地の人から声をかけられたかわからない。

 

「○○ってここからどこ?」

「これ買いたいんだけど、今現金しか持ってなくて買えないのよ」

「タクシー呼んであげようか?」

 

私たちは明らかに日本語で話しているのだから、そんなこと聞いてもわからないとか考えないのかなとかも思うけど、私はこの人と人とが近い感覚は決して嫌いではない。中国の人はすぐに人に頼ることが出来るのかもしれない。そこが日本との大きな違いなのかもしれない。

また反対にタクシーを捕まえられずに困っていたら助けてくれたりもする。自分が困っていたら周りにSOSを出すのも得意だし、人が困っていたら積極的に助けてあげようという気持ちが強いように私は感じた。

人と人との距離が近いことに関しては、賛否両論があると思う。あんまり人に干渉されたくない人、逆に何でもお節介を焼いてしまう人、日本にだってどちらのタイプもいる。でも私は日本で感じているのは、日本人って自分以外の人に関心がなさすぎるよなということ。人に頼ることを恥ずかしいと感じているのかもしれないし、誰かと関わるのが面倒でそんな面倒なことするくらいならスマホに聞けばいいし、と思っている人が多いからなのかもしれない。(実際私もそう思うことはある)

でも今回上海をめぐってみて、もっと人と人との距離が近い方が、何となく表情の変化が富むような感じがした。それは単に笑顔が増えるというだけではなくて、「悲しみ」「怒り」「不安」「不信」などのネガティブな表情の含めて。表情の変化が多い方が、人間として生きている感じがして私は好きだ。人と話さず、画面ばかりを見ていると表情は固定されがちなため、この環境は私のとってとてもいい刺激になった。

 

個人的おもしろエピソード

臭豆腐のお口直しはドリアン

中国の奇妙な食べ物の代表格と言えば臭豆腐であろう。その臭豆腐を実食してみた。真っ黒の四角い物体(表面を腐らせた豆腐らしい)を揚げて、パクチーとか鷹の爪とかネギとかの薬味を入れて、最後にちょっと辛めの汁をかけて食べる料理らしい。

 

食べてみての感想としては、「…なんかそうでもないよね」

もっと「うっわー、くっさーーー!!」「なんじゃこれ、まっずーーー!!」

みたいなものを想像していたのに、肩透かしを食らった気分だった。そもそも臭豆腐は臭くはあるけど耐えられないほどではないし、意外とかかっている汁がおいしいために二人で完食できてしまったのである。

 

 

しかしながら悲劇はこの後に待っていた。

その直後に露店で日本でいうきんつばのようなものに出会った。お口直しのつもりで食べようかという話になり、お互いに何味かわからないもの買ってみた。店員さんがあたためなおしている間、友人が「これ何味なんだろうか」と調べていたら、彼女が頼んだものがドリアンであることが判明。私は黒ゴマ味を頼んだつもりでいたのに、実際に手渡されたのはなんだかしょっぱい味のする謎の食べ物だった(ドリアンよりは数段マシ)。

 

・何回川を渡るんだ私たちは

夜にちょっとばかり奮発して遊ぼうと、遊覧船と川の下をくぐる地下トンネルのトロッコに乗るツアーに友人が申し込んでくれた。私たちは私たちの家がある側からトロッコにのり、帰りに遊覧船に乗って対岸から帰ってくるつもりでいた。

しかしながら予想は大きく外れた。

まずトロッコのスタートが対岸からだった。私たちは地下鉄で対岸に渡り(1回目)トロッコの乗り場に猛ダッシュした(チケットの時間がぎりぎりだったのだ)。トロッコに乗った後(2回目)、家側の遊覧船の乗り場を探し話しかけてみると、乗り場は対岸だと説明され再び地下鉄で対岸に戻る(3回目)。遊覧船は対岸から家側に戻るものだと思い込んで乗船していたら、家側にはつかず川をぐるっと回って元の船着き場に到着する(4回目)。再び対岸から地下鉄に乗って家側に戻る(5回目)。

その時数えたらドット疲れが出てくることが予想できたため、回数を数えていなかったが、もう一生あの川を1日の内に5回も渡ることはないだろうと思うとちょっと頬が緩む。なにしてたんだろ、私たち。

・街中であそんでいるひとたち

トランプ、習字、大合唱、中国の人たちは街中で勝手に遊び始める。その光景が実に自由で楽しげで、これは日本では絶対に見れないものだと感じた。

おじさんたちがバケツに水を汲んで、書初めで使うような大きな筆を持って、公園の道路に自由に文字を書いている平和な光景。私も友人も興味本位で近づいてみる。友人が何やらおじさんたちに話しかけると、彼らは私の名前を書いてくれたり、簡単な中国語や日本語で話しかけてくれたりする。全く知らない人同士が、こんな些細なきっかけでニコニコ話せる中になれるってすごい。言葉もろくに通じないのに、なんとなくその場が成り立っているのがすごい。

こんな風に日本もカチカチせかせかしないで、街中で大の大人が遊べるような社会であれば、もしかしたらもっと楽しい居心地の良い社会になるかもしれないよねとか思ったりもする。

 

 

 

働く

 最近働くということを考えるとき、この3点について考えることが多い。

私が将来働くようになったら、この要素を取り入れたいよねと思うこと。

 

 

 

それはものを作るということ。

きっとこれは私自身がものが好きだから。本とか、絵とか、工芸品とか。その中に料理を入れてもいいかな。

自分にそんなスキルがあるとは思えないけど、これが収入の柱になるとは思えないけど、一つに趣味としてものを作ることをしていきたいし、それがあわよくば収入の助けになるような何かになれたらいいなぁという、現時点では空想の話。

今の時代ってサービスとか仕組みとか、そういうものを作り出せる人が強い世の中な気がするんです。その末端にいるのがものを作る人という構図が悲しい。きっと世の中にはどちらの人も必要で、だったら私はものを作って、人の手元に残り続けれらるような、誰かと一緒に時間を重ねていけるような存在になりたいだなんて、ちょっと格好いいこと言ってみたり。

人に直接触れるもの。人から愛されるもの。人の暮らしに溶け込むもの。

そんなものを作れるような人になりたいし、それで私の「働く」が成り立てばなおいいことだなぁと。

 

 

 

それは複数の稼ぐ手段を持つということ。

一つに収入源に頼りきって生きていくのはとてもリスキーだと思うのが半分。週に5日も同じことは出来ないなと思うのが半分。

将来農業に関わりたい、というかもはや農家さんになりたいと考えている私ですが、その反面で昨年東日本の全域を襲った台風15号・19号のような災害のことを考えると、農業とは災害には弱い産業だということを強く思い知らされます。農業がいいなと思う反面、第一次産業はとっても自然に影響されやすいことを改めて思い知らされた一件でした。でも職業のリスクなんて考え始めたらキリがないと思うんですよね。会社だっていつ倒産するかわからないし。

それと農業を生活の主軸にしてしまうと、どうしてもお金のことが頭をかすめてシンプルに農業を愛することが出来ないのではないかという心配もあります。「このにんじんを3本収穫しても100円にしかならない」とか考えながら日々農業をしていたら、今はこんなに好きなものが嫌いになってしまうそうで怖いんです。でもこの怖さを克服しないと絶対に農家さんにはなれないような気がする。

そうした二つの懸念の現時点での私の解決策が、複数のお金を稼ぐ手段を持つということ。農家としての収入が途絶えたとしても、他で補えることが出来たら、精神的にも経済的にもかなり気楽に農業を楽しめるようになるんじゃないかな。もう一つの職業をどうするかなんてまだまだ考えられないけど。

 

 

最小単位が一人の仕事をするということ。

自分の裁量で決められるって、怖いことでもあり、面白いことでもある。その選択は誰のせいにもできない責任感と、それが間違ったときに感じられる達成感を一人の人間として持っておきたい。何かを人のせいにすることもしたくないし、誰かに私のせいにされることもされたくない。だから人に頼らずに自分一人でも仕事を出来るようになりたいと思う。

誰かに仕事を頼むということは、そこにお金が発生するということ。私はそこまで誰かの人生を背負いたくないし、そんな覚悟はどこにもない。私は私のしあわせを考えるだけで精一杯。

だから自分一人に出来ることの範囲で仕事をしていけるようになりたい。何でも自分でやって、全部の行動の責任を自分で終えるくらいに、自分の仕事に責任と誇りを持ちたいとも思う。

 

 

職業のこと、考え始めるとたくさんの希望とか疑問とか不安とかが出てくる。

でもそれはもう少し自分の知識や経験を積むことでどうにかなるんじゃないかなと思っていて。だからそのために私はいろんなことをやってみるし、いろんな本も読むし、いろんな人に会いに行くし、いろんな場所に行く。

来年度の休学も、将来の選択の根拠を見つけに行く1年にするために選んだ結果なのだと思う。今は正直不安しかないけど、決めたのは他でもない自分だから。自分がこれは楽しそうと思って、自分にとって絶対にいい経験になると感じて選んだ結果だから。

多分、いろんな人が私を止めようとするだろうし(もちろん親切心で)、私だって途中で逃げたくなることもあるかもしれない。それでも自分が選んだ道を信じて来年の休学を思う存分楽しんでやる!という今の心境です。

 

 

成人式をおえて

 

成人式を終え、今思うこと。 

 

 

それは両親への感謝。

 

 

私はとっても普通の家庭に生まれた。お父さんはサラリーマンでお母さんは専業主婦。自宅は東京近郊にある一軒家。小さいころからそんなに裕福と思ったことはないけれど、特に不自由なこともなくすくすくと育ってきた。

 

私の取柄は「健康」「愛嬌」「真面目」

自分で言うのは恥ずかしいですが、本当にまっすぐ育ってきたと思う。私の基礎を創り上げてくれたのは他でもない私の両親だ。

 

さいころ、食べ物の大切さを教えてくれたのはお母さん。

そのころ私は好き嫌いが多かった。夕飯に嫌いなものが出たとき「もうおなかいっぱい」と嘘ついて食べ物を残そうとした。そんな私をお母さんはものすごい勢いで怒鳴りつけたよね。当時は意味がちゃんと分かっていなかったけど、今ならお母さんが伝えたかったことちゃんとわかります。自分の子どもに食べ物を残すような人間になってほしくなかったんだよね。そのおかげで今ではどんなものも残さずおいしく食べられるようになったよ。うちで育ってきたからそれって当たり前だと思ってきたけど、食べ物を残さず食べることって意外と世の中出来ていない人が多いんだよね。私はそういう風に育てられなくてよかったと感じている。きっと私が子育てするようになった時も、ちゃんと食べ物の大切さを教えられる親になるからね。

 

小学生のころ、ソフトボールを習わせてくれたのはお父さん。

小学生が関わることのできる大人なんて、せいぜい学校の先生と自分の親くらいなもの。でも地域のソフトボールチームには、他のメンバーの親、卒業生の親、特にかかわりのない地域のおじさんなど、たくさん大人と接する機会があった。私はそこで初めて大人に接するという体験ができたし、その体験がいまの自分にとても生きていると感じる。そこで培った「大人からかわいがってもらう」というスキルは間違いなく私が持つスキルの中でも上位に入ってくるものだと思う。

またソフトボールをやっていた時代、お父さんは朝練にも付き合ってくれたね。私はさぼり癖があって、全然やらないからお父さんを何回も怒らせたけど、「今日から一か月間、一日でも休んだら、これから先ずっと朝練には付き合わないからな」と言われて、私はちゃんと一ヶ月続けることができた経験は、今の私の中でも誇りとして生きている。私は自分でちゃんとやろうと決めたらちゃんと最後までやり遂げられる人間だという自信を最初に持てたのは、この時だったと思うよ。

 

 

中学生のころ、高校で部活をすることを進めてくれたのはお父さん。

本当は高校で部活をしようとは思っていなかった。アルバイトと大学に行くために勉強のために時間を費やそうと思っていた。でもそんな私にお父さんはこう言ったよね。「中学とか高校の部活っていうのは本当にそのときしかできないものだよ。この先絶対にあんなに全力でスポーツに打ち込むなんていう経験できないから、お父さんは高校でも部活をやった方がいいと思うよ」私はそれで高校で部活をすることを選んだ。高校で陸上部に入って、本当にあの時の時間は私の中での宝物だと思っているよ。そこで出会った仲間も、陸上を通して得ることのできた考え方も、一つのものに打ち込むことの尊さも、尊敬する先生に出会えたことも、本当に全部全部私の宝物。私は高校で陸上を選んでいなかったら、今この大学に来れていなかったと思う。

成人式や同窓会で話していて楽しいのは、やっぱり青春時代を共に過ごした仲間だった。この人たちと出会えて、楽しい中学・高校生活を送れたきっかけをくれたのは、お父さんだったんだね。

 

高校生のころ、起業家さんに会いに行くのに背中を押してくれたのはお母さん。

大学受験が終わって何かしようと試みて、私は起業家さんに会いに行こうと考えて、メールを送った。それでも全然返信が来なくて、「やっぱりこんな小娘は取り合ってもらえないよなぁ」としょぼくれていたところ、お母さんに相談したら「もう一回送ってみればいいじゃん」と背中を押してくれたよね。私は尻込みしながらももう一回メールを送ってそれから会いに行くことになって、私の世界は大きく広がったよ。本当に見えてくる世界が変わった。あの時私が彼女に会いに行ってなかったら、きっとこんな大学生活を送れていないと思うんだ。

 

 

そして今まで、大きな病気も小さな病気もほとんどしてこなかったのは両親のおかげ。

この前農家さんに言われてはっとした。「高田さんは本当に健康だな。それはきっと食ってるものがいいからだっぺ。それと早寝早起き。健康ってのは、普段の生活がそのまま影響してくっからな。」私のこの生活の基礎を創り上げてくれたのは、両親との長年の生活だ。

 

そして両親はどんな時も私に自由な選択を与えてくれた。そのおかげで私は自分の行きたい高校を選び、自分の行きたい大学を選び、中学生の頃には初めて海外に行くことができて、高校生の頃は国内外のボランティアに行かせてもらい、大学生になってからは休学も許してもらえた。ここまで子供の好きなようにやらせてくれる寛大な両親はいないと思う。本当に私を信頼してくれてありがとう。

 

私はいろんな転機で、自分で選択して、20年間自分の力で生きてきたと勘違いしてきた時期もあったけど、そんなことはないんだよね。その転機の選択の裏側には、やっぱり両親の血が流れていて、両親の言葉がある。だから私はこんな人間になれた。

 

ここまで私を育ててくれてありがとう。

まだまだ頼ってしまうこともたくさんあるけど、ちゃんと私がちゃんと私で入れるのはたりのおかげです。

 

この文章が両親に届くことはきっとないだろうけど。

 

 

さよなら、目標に頼る私

いろいろな人が文章として「2019年のまとめ」とか「2020年の目標」とかを自分のことばで表現している。私も去年それを試みたし、ついこの前まで言語化しようとしていた。

しかしながら、なんだかそれが必要ないもののように思えてきた。

なんでなんだろう、と気になって自分なりに今答えを探している段階だけど、何となくここが原因だろうなというものは見えている。

 

まず思うのが、目標なんて立てなくてもどうせ私はなるようになるという、絶対的な安心感というか自信?のようなものがあるからじゃないかということ。もう今の時点で4月からインターンをすることも10月からオーストラリアに行くことも決まっている。だから目標なんて立てなくても、激動の1年になることは目に見えているんだ。

それだから敢えて目標なんて立てない。立てる必要がない。

目標を立てなくたって絶対に今年1年は私にとって激動の年になるし、そもそも激動じゃなかった1年なんてない。もっと言えば人は毎日変化する生物なんだから、昨日の私と今日の私は違う存在と言える。そんな私が365日積み重なるんだから、激動にならないわけないんだ。

目標を立てずとも、私はきっと充実した毎日を送ることが出来る。多分毎日ちょっとずつつらいこと・苦しいことに直面するかもしれないけど、それも日常のちょっとしたスパイスだよなと思って、明日には笑い飛ばせるようなものだよなと軽く考えて、ちょっと踏ん張っていけるくらいには私は強いと思いたいし、仮に強くなんかなくても支えてくれる人がいるから大丈夫って信じている。

 

 

もう一つ思うのが、人に言える目標なんて、かなり虚勢を張っているものなんじゃないかということ。

やっぱり人間は承認欲求を少なからず抱えている人間だから、どんな行動にも人に認められたいという意図がついて回ってしまう。

長距離走で自己ベストを更新する。

筑波大学に受かる。

英語を話せるようになる。

ブログを毎日続ける。

学生団体を立ち上げる。

私が今まで立てた目標なんてどれも、その気持ちの何割かには承認欲求が含まれているものばかり。いかに自分がそれに向かって頑張れるすごい人間かというのを、人に言いふらしているようなものだったのかもしれない。承認欲求がいけないわけではない。むしろそうしたものはその人の行動意欲を掻き立て、挑戦する心に火をつけるものとなるだろう。

でも私はちゃんと自分を自分の背の丈で見れて、出来ない自分も愛してあげられる自分になりたい。私は何にもできないけど、それでも私は私だからそれでいいんだって、成長しなくたってしあわせに生きれるんだってことを許せるようになりたい。

 

影響力のある人の発言をいろいろなSNSを通じて読むたびに、「自分はこのままでいいんだろうか」と不安になる。自分の幸せだけを見つめて、のんびり生きていたい。そんな牧歌的な考えでは世の中生きていけないんじゃないか。もっと物事に貪欲に挑戦していくことが必要なんじゃないか、そんなことを日々考えては「でもやっぱりそれは私にとってのしあわせじゃない」という結論に至る。

自分が憧れる人、すごい人って思う人はいつだって私とは違う世界に住んでいて、私とは違う発想をができる人だ。私は、そういう人に惑わされたくない。その人がどんなに大きな声ですごいことをいったって、それでも私を貫ける私でありたい。ちゃんと自分のしあわせを考え続けられる人でありたい。

 

ただ、今、思うことは、

今年1年幸せに過ごせますようにということ。

それさえあれば、とりあえず私はいいかななんて。

それと私にとって大切な人たちも、ちゃんと幸せでありますように。

大切な人と幸せな時間を共にできますように。

 

これじゃ目標ではなくて単なる願いだ。

でもそれでいい。

それで私がしあわせなら。

 

 

ブログと私のこの一年

 

去年の11月頃、私は「ブログを書こう」と思い立ちました。それはよく参加している(と言っても最近あまり行けてない)ポットラックパーティーで言われたある一言がきっかけでした。

 

当時私は毎日もやもやしていて、そのどうにもならなさに戸惑いながら生活していました。そんな話をポットラックパーティーの場でしていたら、そこにいた常連さんが

なっちゃんさ、ブログ書いてみたら?」

と言ってくれたのがきっかけでした。

 

はじめはとても抵抗がありました。自分の文章を人に読んでもらうのは気恥ずかしいし、そんなに人に読ませられるほどの上手な文章を書けるわけでもないし、というかもともとタイピングも速くないし、SNSとかインターネットとかそういうの好きじゃないし、、、そんな「やらない理由」をくどくど考えていたのですが、それ以上にそのもやもやから早く脱したいという気持ちが強かった。これをどうにか打開できるのなら、どんな手段であれ試してみたいと思っていました。

そうして始まったのがこのブログなのです。

 

ノートの延長線上

当時の私は、もやもやの打開策をいろいろ考えてみては実行していました。アルバイトをやめてみたり、新しい人に出会うためにひたすらイベントに参加したり、いろんな人とにじっくり話を聞いてもらったり。思い返せば今年の2,3月のフィリピン・カンボジア渡航を決めたのもこの時期でした。とにかくもやもやから抜け出したくて、自分が思いつく限りの自分が変われそうな行動を探していたのだと思います。

そうしたもやもやの中で、もう一つ私が実践していたのが、自分の感情を記録することでした。今の自分が何を考え、何に対してどんな感情を抱いているのか。頭の中で考えているだけより実際に文字に起こしてみると出てくる感情もあります。このノートは未来のために取っておく記録というより、現在の自分の思考を整理するために使うメモ書きのような役割で、その延長線上がこのブログになっていました。

 

延長線上と言えども、ノートとブログには大きな違いがあります。それは、人に見られているという「緊張感」。自分で5日に1回は記事を更新すると決めたら、嘘はつきたくないからちゃんと更新する。別に誰も私の更新頻度なんて気にしてないかもしれないけど、それでもちゃんと見られている感覚を持っているから続けることが出来る。

昔から「続けること」が好きでした。日記とか、勉強とか、長距離のトレーニングとか。私の中で継続は圧倒的な正義だった。高校生まではそう思っていたのに、大学生になってそれが揺らぐようになりました。生活の自由度が増して、自分でやることとやらないことを一刀両断できるようになってしまいました。これ自体は悪くないことなのですが、ずっと何かしらを続けていた高校生時代に比べて、「私ふらふらなにしてるんだろ?」と少し落ち込んだりすることも多かったように思います。

そんな日常の中に、「続けるもの」を欲していたのかもしれません。

心から「続けたい」と思えるもので、ちゃんと続けていることが自他ともに目に見えてわかるもの。そうして行きついた先が文章を書くことだったのです。

見られているという緊張感は、内容についても反映されています。自分だけしか読まないノートであれば、誰かの非難だったり、愚痴だったりを書けますが、インターネットにつながっているブログではそうもいかない。誰が読むかなんて全くわからないし、だからこそ人を傷つけることのないような内容を書くように気を付けていました。自分の感情を素直に表現しつつ、人を傷つけないというのは、私にとってはとても難しいことでした。

 

ブログのテーマはばらばら

いつも読んでくださっている人はわかると思うんですけど、私のブログには一貫したテーマというものがありません。農業の話だったり、旅行に行った話だったり、海外についてだったり、日常生活で感じることだったり。その時自分が本当に書きたいこと、誰かに伝えたいことというより「感じたこと」を素直に書いているからこのような一貫性のなさが実現しています。

私は特にずば抜けた文章力があるわけでも、人が知らないような知識があるわけでも、毎日続けているような趣味があるわけでもない、普通の大学生なわけで。文章を書く上での武器というものを持っていません。大抵ブログって一貫したテーマというか、ちゃんとその著者の色が出るようなもの(コミュニティの運営とか起業とかしている人がその経緯とか現状を綴ったりとか、主婦の方々がお料理とか家庭菜園とかしてその様子を書いていたりとか?)があることが多いように思えますが、私はそんな文章書けません。

でもそうした武器がないからこそ、自由に思ったことだけを書けるのです。毎回のテーマに縛られることなく、その時々に自分が経験したことや感じたことを自分の言葉で文章に出来る。そうすれば書きたくないことは書かなくていいし、書きたいことを後回しにする必要もありません。数を気にする必要もない。ここは私が素直に感情を表現するための場所であって、誰かから評価をもらう場所ではない。テーマをばらばらにすることで、私はのびのび文章を書いてこれました。

 

 

書くことと自分の中での変化

今まで文章を読むこと、何かを考えることが好きだった私ですが、こうして定期的に自分のことを表現する機会を今まで設けたことがなかったので、ブログというのは私にとっての大きな挑戦となりました。そうした挑戦の中で、私は何か変われたのだろうかと振り返ってみることとします。

 

ひとつは小さなことを深堀しようと思えるようになったこと。

私は大抵の記事を2000~3000字を目安に書いています。あんまり少なすぎると読みごたえがないし、どんどん手を抜いた文章を書くようになってしまう。かといって多すぎると続けるのも大変だし、読む人もうんざりしてしまう。そうならないための中間がこの量だと思っていました。しかしながら、ポッと出のアイデアで2000字も文章を綴ることは容易ではありません。だから毎回一つのテーマに対して自分の中で考える時間をたくさん作ります。どんな表現が一番適切かとか、どんな構成にしたら読みやすいものになるかとか考えながら、5日間かけて場合によってはもっと長い時間をかけて文章を作っていきます。

 

2つ目は自分の考えに反応をもらえるということ。

私が考えていることは、外に出さなければ誰にも伝わることなくどこかに忘れ葬られます。でも私がそれをちゃんと言語化することによって、それをたまたま読んでくれた人が私の文章に対して何らかのコメントを返してくれて、もうそれだけで「何か」が生まれているなぁと。「価値」というには程遠いかもしれないけど、そこで交流が生まれることで何かしらその人との関係にいい影響を与えられているんじゃないかなぁと。例えば「私も同じこと思う」って共感してくれる人とか、「自分もその分野興味ある!」って教えてくれたりとか、「今度それについて話そうよ!」という風に会う機会につながったりとか。そうした「風」のようなものを生み出せただけで、私にとってブログの存在は大きかったのかもしれません。

 

そして3つ目はもう文章を書かずとも、自分の思考を整理できるようになってきたこと。

正確に言うと、文章を書かずとも、もやもやで不幸になることなく、私自身が心豊かに過ごせる環境が出来上がっているということ。始めたばかりの時は、これからに対する不安がたくさんあって、何に頼ればいいのか、自分はどうしていったらいいのか、もしくはどうしていきたいのか、私にとって幸せってなんなんだろうか、すべてがわからなくっておろおろしていましたが、今ではそれほど悩むこともなくなりました。今の私は私は畑に行けることが幸せで、帰る家があることが幸せで、おいしいごはんを一緒に食べる人がいてくれるだけで幸せ。だからそんなに深刻に悩むこともないし、多分この先も大丈夫だろうと。

 

 

ということで、来年はこれまでのような頻度では更新しなくなります。

ブログ自体を完全にやめるのではなく、思いついたときに筆を執る(PCを開く)スタイルにシフトしていこうと思っています。

たまに更新されたら、また読んでいただけたら幸いです。

それではみなさん、よいお年を!