あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

福島での読み聞かせ実習

大学の授業の一環で、南相馬市の小学校に通う子供たちに紙芝居の読み聞かせをしてきました。何の気なしに取った授業、「こどもたちかわいいだろうな」くらいの動機で行くことを決めた実習。そこで私が経験したのは感情の嵐でした。

 

被災地の光景

汚染物質が入ってあるであろう大きな黒いビニール袋が山のように積まれている土地、かつては人が住んでいたであろう廃屋、人気のない街、震災後に建設されたであろう新しい集合住宅の数々、「この区間2輪車通行禁止」の表示、9年前に連日ニュースで目にした「楢葉」「双葉」「富岡」などの地名。

 

ここは「福島」だ。

原発事故の影響を、今もなお、受け続けている土地だ。

 

これまで被災地には何度か赴いたことはありましたが、原発事故の影響を受けた土地を訪れたのはこれが初めてのことでした。町が寂しい。人が少ない。このイメージを抱くことが正しいかどうかもわかりません。そんなネガティブイメージを持つことで、福島を偏った見方で見てしまっているような気がして怖かった。自分がいままで持っていた福島のイメージに沿うようにして、光景を解釈しようとしているのかもしれないと。何が正しくて、どうしたら誰も傷つけないで福島に対する感情を表現すればいいのかわからないけど、とにかく私が小学校に行く途中のバスで感じたのは、猛烈な「寂しさ・暗さ」でした。

 

負の印象を抱くこと

やはり、震災の当事者ではなかった私たちが「被災地」特に「福島」という言葉を耳にすると、頭に浮かんでしまうのは負の印象です。津波が来て、原発事故が起きて、たくさんの人がいろんなところに避難して、今も家に帰ることが叶わない人がいる。そういうイメージを持ってしまっている場所。そうした負のイメージが固定化されていて、私たちはそこからなかなか抜け出すことが出来ない。だから私はバスの中で「寂しさ・暗さ」を感じていたのかもしれません。

でもその認識は本当に正しいのでしょうか。報道で得た情報ばかりが私たちの頭の中を占領して、目の前の現実を正確に感じとれないことは多々あります。今回もそうなってはいないだろうかと自問自答してみる。もっと希望が見える場所があるのかもしれないし、私の「寂しさ・暗さ」のイメージは独り歩きしすぎているかもしれない。自分の今感じている感情をちゃんと疑ってみること。

 

私は辛い話をなぜ聞きに行くのか

私は、なぜだか自分がここに行ったらつらい体験談聞くだろう、そしてそのどうにもならなさに心を搔き乱されるだろう、そう分かっていながら、その地に赴く傾向があると今回初めて気が付きました。私が「ボランティア」とか「支援」とかそうした活動を始めたのは高校1年生の時。それからもう一度宮城に行って、カンボジアに行って、フィリピンに行って、こども食堂でもお手伝いするようになって、そして今回福島に行って。(もちろんこれまでたくさん手を伸ばすことのできなかった災害や貧困もたくさんあります。熊本の震災、北海道の震災、西日本の豪雨、鬼怒川の氾濫、今年の秋の二つの大きな台風、)

 

おそらくこうした一連の行動の原体験は、初めてのボランティア活動をした高校1年生の時のあの言葉。

「きっと今回の体験は日常に戻ったら忘れると思うんだけど、忘れないでほしい。まだ5年たっても復興は終わっていないことを頭に残して帰ってほしい。そしてまた来てほしい。」

 

そのボランティアでは震災復興の直接のボランティア(みんなが想像しやすいようなぼ泥の掻き出しとか炊き出しとか)というより、お祭りのお手伝いをしたり、被害がひどかった地域を語り部さんと一緒にまわったり、震災後に新たに始まった農場の見学に行ったりというような、「体験」の意味合いが強いものでした。「被災地のために何か力になった」という実感よりも、「被災地という場所を、初めてちゃんと自分の目で確かめることができた」という実感の方が強かったように思えます。

 

その時受けた最大の衝撃は「私は何も知らなかった。」ということ。

 

ここでどんなことが起きて、人々はどんな怖い思いをしたのか。そのあとどんな生活をして、今どんな思いで暮らしているのか。あの時のボランティアを通してその一部のはじめて触れることができたし、自分の無知を知って、見ない振りしないでちゃんと向き合いたいと思った。大変な思いをしている人たちと。

まだたくさん苦しんでいる人がいること。それを私は忘れないこと。知らないことにしないこと。帰りの夜行バスの中で、そんなことが頭の中をぐるぐるめぐって、そうしているうちにどんどん被災地は遠くなって、自分の家が近づいて。それと一緒に「非日常」が遠ざかって、「日常」の色が濃くなって。そんな目まぐるし風景の変化と心の変化。たくさん感じたものを忘れたくなくて、忘れるものかと思っているのに、いつの間にか薄れてしまっていく恐怖に対して、16歳の私はどうすることもできませんでした。

 

その中で私が唯一出来たのは、「また被災地に行くこと」でした。

知らないことにしない。忘れない。ちゃんとまたここに来る。これをすることは私にとってはとても難しいこと。やっぱり日々生活していると、自分の生活のことで頭がいっぱいになってしまうから。だからまたここに来て、ちゃんと自分の中に取り入れる。考えることをやめない。

 

 

この言葉はこどもたちに届いているかな

今回の実習は、普段から南相馬で小学生向けに読み聞かせを開催している「おはなしのへや」という活動に、私たち大学生が加わるという形のものでした。おはなしのへやスタッフが取り上げる作品はどれも、すてきなメッセージを放つものでした。絵本って大きなメッセージをたくさん内包しているけど、このメッセージを彼らはどれだけ受け取ってくれているのだろうと想像していました。

 

おかあさん、ありがとうのメッセージ。

毎日がタカラモノのメッセージ。

貧富の格差と人を想う心のメッセージ。

 

どれも大学生になった今の私だから胸に響く物語で、果たしてこれを小学校低学年の時に聞いていたらどんなことを感じていたのかな。「ふーん」の一言で終わっちゃうんじゃないかな。

さいころおそらくたくさんの物語を見聞きしていたはずです。それは母親から読み聞かせてもらったり、それこそ保育園や小学校でのこうした読み聞かせの時間を通じてだったり。でもほとんどの物語は覚えていません。なんだかそれって悲しいなぁと感じます。

でもそうした覚えていない物語は、もしかしたら今の私の体とか心のどこか一部分を形成しているのかもしれない。もしかしたら今日読んだ紙芝居が、30人ほどいた子たちの中のたった一人の子かもしれないけど、数少ない「記憶に残る物語」として大きくなっても覚えてくれているかもしれない。

この体験をあの子たちがどう捉えるかはわからない。でも心のどこかに残ってくれたらいいなと思って。

 

たくさんの体験談 

おはなしのへやスタッフが書いてきてくださった次の劇の台本は、私にとっては刺激が強すぎるものでした。

それぞれの方々の震災から現在の物語。

大きな揺れ、子供の泣き声、実現しなかった「また明日ね」、どろどろでも生きて帰ってきてくれたおじいちゃん、避難所での生活、繰り返される引っ越し。

 

何よりも、この台本を手に取ったスタッフの方の「涙なしには読めないもんね。一気に読めないもんね。」というお言葉が、とても印象的でした。私は、心苦しいと感じながらも涙を流さずに読めてしまう。大きな壁を感じずにはいられませんでした。どんなに私がこの体験談を聞いて、相手を慮ってつらい気持ちになっても、完全に相手の気持ちを理解することは出来ない。いくら想像力を働かせたところで、私はその悲しみを彼女たちのように受け取ることが出来ない。それならそもそも私は、一緒に悲しむことは許されないのではないだろうか。被害を受けていない私は、痛みを理解することのできない私は、彼女たちに寄り添うことは出来ないんじゃないか。

 

それなら私たちが出来ることってなんだろう。

自分がもしそんな大変な目にあったら、周りの人にどう接してほしいだろう。

そんなことを考えながら、でもやっぱり答えは出ないまま、きっとこれもこの先ずっと考え続ける問いなのでしょう。

 

危ぶまれる継続性

今回の読み聞かせの実習は大学の授業の一環として行きました。この授業で行く実習は、国からの復興事業の予算から出ているというお話を聞いていました。しかしながら震災から8年が経った現在、そうした予算も徐々に縮小しつつあり、そうした審査も厳しくなり、予算が縮小するということは実習に行ける機会も徐々に減ってしまいます。そうした中で、今まで通りのような活動ができなくなってしまったり、場合によってはこうした実習がなくなってしまったりする可能性は十分にあります。

この実習って「行きたいです」って言ったら誰でも行ける、本当に気軽なものなんです。平日なら公欠扱いにしてくれるし、かかる費用は全部大学側が負担してくれるし。大学の中に未だに存在する、「行きたいと思えば被災地に行ける」という仕組みがなくなることに危機感を感じます。

被災地が遠くなること。私のように被災地に行くことによって自分の考えが揺るがされたり、何かしたいと思ったりする人の可能性が減らされてしまうこと。それはどうなんだろうか。この先日本を担っていく世代は、ちゃんとこんな場所があることを心に留めて、自分たちには何ができるのかを考えるきっかけを与えてほしいと感じました。

このようなプログラムがなくても、自分が行く気になれば福島に行くことは出来ます。でもそのきっかけを掴めていない人が大半です。行くことは出来たとしても、地域の人たちとのつながりがなければ、そこで体験を聞いたり自分たちの方から読み聞かせの空間を作ることは非常に難しいことです。これではせっかくその場所に行ったのに、その意味が半減してしまう。

多くの人々にとって、現地に行くというのはとても大きなハードルだと思うんです。でもそのハードルを跳び越える価値は絶対にあるし、そのハードルを少しでも下げることはハードルを跳び越えられる人と増やすという意味で非常に意義のあることだと思うんです。

だから、来年もその先もこの活動がちゃんと継続していけるようになってほしい。

 

抱えきれない事の重さ

家に帰って何度も思い返すたくさんの光景。

無邪気な子供たち、暗い顔をした子供たち、たくさん積まれた黒いビニール袋、廃屋、おはなしのへやスタッフの悲しい体験談。

思い返すたびに心が沈み、この文章を打ちながら自分の「何もできなさ」にへこみます。現時点の私に出来ることはおそらく、こんなものを見た、こんなことを感じたというのを自分の中でゆっくりとかみ砕いたり、出来ることなら誰かに伝えたりすること。もう少し頑張るなら、また被災地に赴くことなのかと思っています。

こうした態度が被災地支援において正解かどうかなんて私にはわからない。おそらくきっと誰にも分らないし、正解なんかない。みんなそんな世界の中で、自分なりの正解を求めながら生きているんだと思います。

私だけでは抱えきれない。でも知ってしまったからには、自分に何か出来ることがあるならば、その「何か」をするしかない。

 

いつ起きるかわからない

災害は日常にどすん。と落ちてくる。

私たちは毎日一瞬一瞬「次の瞬間死ぬ可能性がある」なんて思うことは出来ません。特に私のような若造は、この先何十年も当たり前のように自分の未来は存在していることを信じ切っています。

 

でもそんな未来が裏切られるときもある。

明日もその先もずっと家族が一緒に暮らせるとは限らない。大切な人が生きているとは限らない。家がそこにあるとは限らない。今の暮らしは「当たり前」のものでは決してない。いくら言葉では理解していたって、いくらその場ではそう思ったって、こうした感情は実体験を伴わないからすぐにどこかに消えてしまう。事実として私たちは温度の持ったものとしてそれを受けいれることが出来ない。

 

ちゃんと生きたいと思う。自分に嘘をつかないで。多分どんな人生を送ったとしても、災害が起きたときに何かしらは後悔することがあると思う。もっと家族の傍にいたらよかったとか、あの時喧嘩なんてしなければよかったとか。後悔しないなんて難しいことだ。きっと私たち人間には出来ないことだ。

 

それでも、いや、それだからこそ、ちゃんと生きたい。

自分の大切にしたいものを大切にして、1日1日健康に生きていられることに感謝して。後悔しない人生は歩めないかもしれないけど、ちゃんと生きることは今からでもできる。この違いをはっきり説明することは出来ないけど、私の中では少しづつ確立されているから、もう少し言語化できるようになったらしてみたいと思います。

ゲストハウスに泊まる

大学生になって、高校生の時までほとんど旅行に行ったことのなかった私が、たくさんいろんな場所に行くようになりました。1年と9か月で巡った都道府県は27か所!行く時々によって、一緒に行く人によって、旅行の楽しみ方も様々です。

ある時は一人で、ある時は旅仲間と、ある時は高校時代の友人と、ある時は大学で知り合った友人と、ある時はサークルみんなで、ある時は実の姉と。

ごはんを楽しみに行ったり、きれいな景色を見に行ったり、ドライブを楽しみに行ったり、ボラバイトに行ったり、リゾートバイトに行ったり、キャンプをしに行ったり、美術館を巡ってみたり。

 

その中で今回は、「ゲストハウスを楽しむための旅」に行ってきました。

 

マスヤゲストハウス

諏訪にあるこの宿は、古くからある温泉宿を改装して作られたそう。一階にはバーカウンターとコタツがあり、キッチンがあり、本棚がある。バーカウンターは宿泊者でなくてもぶらりと来れる場所で、その日も別の場所に宿泊を予約している人も遊びに来ていました。コタツがあるってだけで私の幸福度はかなり上がります。

宿の中のいたるところにデザインの工夫がみられる、素敵な空間なんです。お話を聞いたところ、この空間を創り出している建材は、取り壊されてしまう廃屋の一部だったものばかりだそうです。かつて人々が暮らしているのを見守ってくれていた家の一部がゲストハウスという形になって私たちを迎え入れてくれる。なんだか不思議な気持ちです。ずっと人々を守ってきたものが壊されて、でもその一部がまた私たちを守ってくれている。いらなくなったからただ捨てる、のではなく、違った形になって、素敵なデザインに生まれ変わって、宿の一部になっている。知らなかったらただの個性的なデザインの宿。でもそこにあるストーリーを知ると、また別の意味を持った場所になる。

 夜はみんなでコタツに入っておしゃべりしたり、ごはんを食べたり、お酒を飲んだり、ゲームをしたり。和やかな時間。肩の力が抜ける時間。話しているうちに意外なつながりがあったりとか、周辺のおすすめの場所がわかったりとか、おすすめのゲストハウスが知れたりとか。そんなこんなで時間はあっという間に過ぎていきます。

ここにくるお客さんは、おしゃべりが好きみたい。みんなよくしゃべる。でも主張が強すぎない。人のおしゃべりを聞くのが好きな人も多いみたいです。これくらい穏やかな場所だと、私もおしゃべりしやすい。

 

諏訪の街中を歩いてみると、古い町で一見活気が失われているようにも見えるけど、そんなことなくて、新しいお店が最近増えてきているそう。これもマスヤができたことが大きなきっかけになっているそうで。マスヤができてからたくさんの人が諏訪を訪れるようになって、諏訪を好きになった人がマスヤとに助けてもらいながらお店をオープンさせたりしていて。ある一人のお客さんが「マスヤができてから人の流れが完全に変わったよ」って言っていました。建てられてから4,5年でそんなに周囲の人にそして地域に大きな影響を与えられる場所って本当にすごい。

 ゲストハウスが地域から隔離されたものではなくて、地域に根付いているものになっているのがすごいと思いました。これってなかなか難しいことだと思うんです。新参者が古くからある街にやってきて、新しいビジネスを起こして、その地域に受け入れられるってこと。それがきっかけで、さらに移住者を増やすということ。それを実現しているこの宿はすごいところなんじゃないか。

 

http://masuya-gh.com/

 

 

古民家noie梢乃雪

玄関を入った瞬間「ここ、いい!」ってなる。そんな場所でした。

だって目の前に薪ストーブがあって、囲炉裏があって、コタツが出迎えてくれるんだもん。しかもかわいいわんこが激突してくるんだもん。もう、それだけで、めろめろです。でも辿り着くのがとっても大変な場所。絵にかいたような「ド田舎」。長野県の一番北にある小さな小さな村の中にある、山に囲まれて近くに川が流れて畑もあって、でもそれくらいしかない、そんな宿。近所をお散歩すると冬の風が顔を刺して、わんこが足をまとわりついてきて、さわさわ水が流れる音がしてきて、思わず深呼吸してしまう場所。

 

他のゲストが近所の温泉に行っている間に、私はスタッフのちかさんと一緒に夕飯の準備をしていました。この日のメニューは、キノコサラダ・長芋ユッケ・クリームチーズの醤油漬け・高野豆腐の唐揚げ・キムチ鍋と〆のラーメン。出来合いのものじゃなくて、ちゃんとおだしを取って、丁寧に作る。一緒にお料理していて、いつも丁寧に作っていることがちゃんと伝わってくる。

一緒にお料理をしながらちかさんとはいろんなおしゃべりができました。ゲストハウスのスタッフさんと、こんなに長い時間二人きりでおしゃべりするなんて初めてでした。ちかさんはあと少しで3年いたこのゲストハウスをさよならしてしまうらしくて、それが本当に寂しいと。私もせっかく出会えてこんなに話して、でも次来た時にはいないと思うととても寂しい。たった1時間おしゃべりしただけで、相手にそう思わせてしまう彼女の人柄が素敵。

印象的だったのが「またここに戻ってくる」「この幸せって当たり前じゃないんだ」って言っていたこと。本当に彼女はここが好きなんだ。きっとたくさんのお客さんに愛されているからそう思えるんだろうし、彼女自身もここにくるお客さんを愛しているから、そう思えるんだと思います。自分が本当に好きと思える場所が、帰ってきたいと思える場所があるって素敵だなぁと思います。

「たまに一人で食べると、いつもみんなと一緒に食べている分、寂しいというかつまらないんだよね。そういう時、いかに普段自分が豊かな生活をしているかがわかるんだ。いつもは当たり前と思っちゃっているけど、全然当たり前なんかじゃないんだね」私も日々おんなじことを思っている。誰かと食卓を囲むことは幸せで豊かで、決して当たり前のことじゃない。それだからこそ、そういうことが普段からできている自分の身の回りへの感謝を、ちゃんと忘れずに持ち続けていたいなと思ったり。

 朝、起きたらごはんの準備が始まっている。薪ストーブの上の鉄板にじゃがばたとベーコンと目玉焼きがお行儀よくのっている。その光景だけで私は幸せです。昔の暖房器具ってなんにでも使えるんだ。改めて人の知恵って偉大だと感じました。自分の体を温めるだけじゃなくて、部屋全体も暖めて、料理をするにも一役買って。ひとつの器具がひとつの役割に縛られないで、自由な発想の使われ方をしている。ひとつのものがマルチに活躍できるっていう発想、現代の機器にはあんまり見られない気がする。

しっかし、こんなにしっかりごはんが出るゲストハウスって初めてだなぁ。旅行の中でやっぱり「おいしいごはん」というのは重要な立ち位置を占めていて、それさえあれば大抵どんな行先でも私は幸せ。外に食べに行くのも好きだけど、こうして宿で食べるごはんって落ち着きますよね。食べた後に「帰る」という行為がないのがいい。食べてそのままゴロンて出来るのがいいですよね。お酒も程よく飲めるし。

 

http://kominkasaisei.net/

 

 

 

 

びっくりしたのが、どちらの宿もかなりの数の「ファン」がいること。

「ゲストハウスが好きな人」って結構いるみたいで、そういう人たちって多いときは毎週のようにいろんなゲストハウスに泊まっているそうな。そうした人たちが愛してやまないのが、今回私が訪れた2軒でした。実際に行ってみると、確かに何度も泊まりたくなる気持ちがわかります。この2つの宿の魅力を語るにはきっと1泊では足りません。本当に心からまた来たいと思える場所でした。

 

その一因として考えられるのが、スタッフの温かさだったのかもしれません。今まで私はゲストハウスに泊まっても、なかなか馴染めないままでした。なんとなくいろんな人が話している輪に入っていけない感じがして。でも今回の宿はスタッフさんの印象も他のお客さんの印象もほんのりあったかい感じの人が多くて。きっとスタッフさんがそういう人柄だから、自然とそういう雰囲気をまとった人がその場所に集まってくるんだろうなとか思ったり。あと私が今まで泊まったゲストハウスは、みんなで夜ご飯を食べる型のものではなかったのも大きかったのかもしれません。食卓を囲むって偉大だ。

 

ゲストハウスに味を占めたので、またタイミングがあれば一人旅に出たいな。

 

カフェにいて思うこと

 

最近カフェでアルバイトを始めました。

大学生になる前からずっと「カフェのおねえさん」になりたくて(笑)という理由もありますが、一応もう少しまともな理由をつけるとすれば「接客を学んでみたかったから」。接客するときってどんなことに気を付けているのか、どんな風に接したらお客さんは心地よくその空間で時間を過ごせるのかということを実践的に学んでみたくて、このアルバイトを始めてみました。

アルバイトを始めてから2か月ほどたち、毎回シフトに入るたびにいろんな発見があります。今回はそんなちょっとしたカフェの日常とそれについて私が考えたことを書いてみようかと思います。

 

私が働いているのは大手チェーン店のカフェ。店舗の敷地も広く、「長時間居座れる場所」として社会的に認知されているため、平日休日問わず幅広い層のお客さんがいろいろな目的で訪れます。あさイチに来て新聞を読む人、コーヒーを1杯頼んでPCやノートに向かう人、最近は少なくなってしまった喫煙所を求めてやってくる人、女子会をしに来る人、ただ単に食事をしに来る人、お仕事の打ち合わせに利用する人…

 

 

人は勉強している

年齢層は高校生くらいからちょっと若めの社会人たち。勉強している内容も様々で、見たことあるような公式や文法が載っているテキストを広げている人から、何やら難しい試験の参考書を開いている人まで。

私が驚くのは、「社会人って勉強するんだ!!」ということ。

今までいろんな社会人に会ってきて、「いいなぁ、学生は勉強する時間いっぱいあるじゃん」みたいなこと言われることも多々ありました。でもそれを聞きながら私は「でも社会人ってそんなに勉強することなさそうだよな」とか思ってて。(社会人舐めるな!と思った方すみません!)でもそんなことないんですよね。社会人で勉強している人ってこんなにたくさんいるんだ!って素直に思いました。

確かに勉強って学校卒業して「はいさようなら」というものでもないし、人生100年時代と言われる現代において、どんどん人生の中でのやることも社会で求められることも変わっていくのだから、それに合わせて勉強していくことは避けられないのだと感じます。

 

そんな姿を見ていると、「私、こんなところでアルバイトしていていいのかな。せっかく自由に勉強する時間(つまりは机に向かう時間)があるのだから、今のうちにたくさん勉強しておいた方がいいのかな」なんて不安に感じたりもしますが、そんな焦燥感が火種となって始める勉強はおそらく本当の勉強ではないと思います。その知識の必要性を感じた時、初めて勉強を始めるべきだというのが私の考えなので、現状私にとっての勉強はテキストを広げてやるものではなく、いろんなところでいろんなものを見聞きして考えることです。

 

人は大いに話し込んでいる

随分と長い時間話し込んでいる人、結構多くいます。あんまりよくないんだろうけど、たまに聞こえてくる会話が熱気のこもった内容だったりすると、つい耳に入ってきてしまいます。

先日も男性3人ほどがつくば市の活性化について熱い議論を交わしていたり、男性二人がこの先どんな仕事をしていきたいかをぽつぽつと話し合っていたり。

いろんな人いろんな物事に対していろんな感情を持っている。私がいろんな物事についていろんなことを考えているのと同じように、人が存在している数分だけ、その人固有の思考がある。日頃目の前にいる人が本気で何に興味を持っているのか、将来どんなことをしていきたいのかなんて、聞く機会はない。けれども人は、話したい相手に話したいタイミングでそうした話を始める。それがたまたま私の目の前で起こっている。

たまたま人が一生懸命自分の思考を話しているところに立ち会ってしまった、なんとも言えない感情に出会います。耳に入ってきていいのか、全く知らない人のこんなに繊細な部分が、という若干の罪悪感にさいなまれたり。

 

人は団欒を楽しんでいる

「きっとこの人たち、おしゃべりするためにこのお店に入ってきたんだろうな」

そんなお客さんもたくさんいます。

一目でわかる。だって私もそれやるもん。自分が大好きな相手と。

ケーキとドリンクを頼んで、2時間3時間会話が絶えない人たち。ずっとみんなにこにこしていて、誰かしらが常にしゃべっていて、その人の声にみんなが耳を傾けていて。

会話の中身なんてきっと後から思い返したらなんてことない。もしかしたら思い返すことすらできないくらい中身のない話かもしれない。でもこの時彼女らの間で重要なのは決して会話の中身ではないのだ。きっと今この瞬間、自分が心地よいと思える相手と時間を過ごすことが、この人たちにとって最高に楽しい時間の使い方なんだ。

 

 

 

 

 

ここで働いていると、なんだか人って悪くないなと思います。

うん、人って悪くない。

こんな表現しかできないのがもどかしいけど、そう思うのです。

 

生きていて、私自身も大変なこといっぱいあるし、多分私以上に大変な人は数えきれないほどいる。でも人生ってそんなに暗いものじゃない。希望を持てることってたくさんあるんじゃないかって思える。

 

人が頑張ろうとか、自分の熱意を話そうとか、友達を楽しい時間を過ごそうとか、そう思ったときに来る場所がここなのか。このお店なのか。

そんないろんな方向の前向きなベクトルを持つ人を、まるっと受け入れることのできるこのカフェは偉大な場所なのかもしれない。

 

まとめない

まとめなくていい

はじめてこんな言葉をかけてもらったのは、高校3年生の受験のグループディスカッション練習の時でした。

 

「グループディスカッションというのは、時間内にグループの意見を集約して結論を出すことが目的だからね。だからまとめ役にならなくてもいいの。むしろならない方がいいの。与えられたテーマに対して、自分が言いたいこと好き勝手言って、それを評価してもらえばいいんだから。面接官がテーマに対する答えを求めているんじゃなくて、受験者がどんな考えを持っている子なのかを知りたいだけだから。」

 

 ほう、そういうものなのか。

当時受験術なんて何にも知らなった私は、その先生の言葉を素直に受け取り、グループディスカッションの本番も、周りにまとめ役を買って出ている人がいる中でも、慌てず騒がず焦らず、好き勝手に発言しました。今思い返すと、あの場でよくもあんなどうでもいいこと発言したなと思うようなことまで(笑)

 

大学の授業でもちらほら

「まとめなくてもいい」という考え方を久しく忘れていたのですが、ここ最近いくつかの授業の中で誰かの発表の後にディスカッションの時間があって、その時教授はこう言うんですよね。「まとまらなくてもいいので、話し合ってみてください」と。

きっとこの授業の目的は、発表者の話を聞いて自分以外の人はそれをどう捉えたかを知ることなのでしょう。決して結論を出すことだけが有意義な時間というわけではなく、結論を出してしまったあとでは見えなくなってしまう、たくさんの声を自分の耳で拾うことも大事なことと考えられているのだなと感じています。

 

まとめなくていいディスカッションは、本当にまとまらない。皆がまとめる気がないから、それぞれが自分の言いたいことを言って、誰かに対して意見を言うこともあるし、完全にみんなからスルーされる意見というのもある。そんなカオスな話し合いが当然のものとして受け入れられている時間なのです。

誰かにちゃんと意見を返さなきゃとか、結論を出さないととか、そんな変な強迫観念がないために、肩の力を抜いて自分しか気になってないだろうなと思うような疑問すらも投げかけることができる。あわよくばその疑問に対する答えが返ってくる。想像していたよりもずっと楽しく充実した時間を過ごせます。メンバーに話し合う気さえあれば。

 

 まとめると流れていく、小さなかけら

まとめる能力って、よく必要とされますよね。でも最近、「まとめる」って時として、たくさんの落とし物をしてしまう気がしています。

まとめるというのは、いろいろあるものの中で、事実とか感情とか意見とかの大事な部分だけを切り取って、わかりやすくするということ。話もしっかりと筋道を立てるということ。それだからどうしても、多くの人から要らないだろうと思われるような部分は削られてしまって、どこの誰にも届かなくなってしまう。もしかしたら、その人にとって今一番欲しい言葉は、この届かなかった小さなかけらかもしれないのに。まとめたら削られてしまう小さなかけらに、その人の想いが一番詰まっているかのしれないのに。

そうした小さなかけらを取りこぼさない人になれたらいいなと思います。自分が受け取り側でも届ける側でも。話の本筋において大事なことを強調することも、明確に何かを主張するときには大事かもしれないけど、もっとそこには余白があってもいい。あってもいいというより、そこの余白をちゃんと受け止められるような度量のある人に私はなりたいなんて、ちょっとかっこいいこと言ってみたり。

 

私自身、こうして文章を書いていてまとまらないこと、たくさんあります。書いているうちにどんどんいろんな思いが浮かんでは消えて、自分しか文脈を辿れないようなこともいっぱいあって、あれもこれも書きたい、でもそうすると全然違う話が始まってしまうからこっちは今度のテーマのために取っておこう、そんなことの繰り返し。自分なりにこれまではまとめてきたつもりではあるけれど、あえてめちゃくちゃに感情を羅列したままにして投稿してしまうこともしばしばです。きっと読みづらい部分もたくさんあるだろうけど、小さいかけらを残しておいた方が、多分私をよく表現していると思うから。たった一つの確固たる意志を持った私ではなく、まとめきれない小さなかけらをたくさん持った私でしかないから。

 

「まとめられない」ではなく「まとめない」

私たちは、どうしてもまとまろうとする。どんな時も。小学生の調べ学習の新聞でも、中学生の時に書いた税に関する作文コンクールの時も、大学受験のために練りに練った志望動機の時も。自分の一部を削って、わかりやすくなったものを誰かの評価される。まとめるのは結構苦しい。それはたくさん削らないといけないから。意図的に主張を作り出して、その主張を強固にするために言葉を切り貼りしないといけないから。

 

その段階を抜け出せたらなと思います。まとまらない、私。

たくさんの小さなかけらを―優れたかけらも壊れやすいかけらもおもしろいかけらもー全部持っている状態でいたいです。持っているうえで、たくさんそれを相手に伝えられるようになりたい。信頼できる相手に、私にはいろんな部分があるということを、ちゃんと知ってもらえたらなと思います。そういうひとと一緒に時間を過ごせたらなと思います。

これから働いていくうえでも暮らしていくうえでも。

人との壁

小学生のころから私たちはこんな風に教えられて育ちます。

「みんなと仲良くしましょう」

「差別をしないようにしましょう」

でもこれを本当にできる人っていないと思います。聞こえがいい言葉達ですが、実際に世の中はそんなにきれいじゃない。しかしながら、それを割り切ってしまっていていいのか。そんな難しさを痛感している最近です。

 

苦手な人とは関わらない

上手に人と関わるうえで、私が体得してきた方法はこれに尽きます。基本的に私は友人関係で問題が起こったことは一度もなく、とっても穏やかな学生生活を過ごしてこれたと思っています。それは自分の中でこの信条を忠実に守ってきたから。

人類みんなと仲良くなんて、できない。世の中にはたくさんの人がいて、自分の価値観と合う人も合わない人も当然いる。だったら自分と価値観とか間合いとかが合う人とだけ一緒に過ごしていれば問題は起きないじゃん。そっちの方がみんなと仲良くする努力をするよりも、よっぽど軋轢が生まれることなく幸せな世の中じゃん。

そのため出来るだけ自分と合いそうな人と一緒にいるようにして、合わなそうな人とはある程度の距離を取るようにして、自分の世界を、居心地のいいように囲って生活してきました。誰かと衝突を起こすこともなく、自分が大きく傷つくとこもなく、平穏な日常を過ごしてこれました。

 

この考えは、恥ずかしながら障害を持つ人や精神的な病気を抱えている人に対しても同じようなことを考えていて。小学生の時、クラスに障害を持つ子がいた経験があって、クラスの一部の子はそこの子サポートを買って出ていて、一部の子はちょっと煙たい顔して見ていて、私はその中間。無関心なわけじゃないけど、基本的に関わらなかった、いや関われなかったという方が正解かもしれないですね。私はその子に対してどのように接したらいいかわからなくて、わからないまま時間は過ぎていっていました。

 

線引きを超えられない

しかしながら最近本当にこれでよかったのだろうかという疑問を持つようになりました。これはこんな出来事から。

最近アルバイトで行く農家さんのところで、福祉施設に通っている人と一緒に仕事をすることがあります。私の人生の中で今まで一度も関わったことのない人たちばかり。今自分が住んでいる世界が、世の中のあらゆるものから断絶されているかということを思い知りました。それとともに、自分はいろんな人と関わる努力を怠ってきたのだという現実を見せつけられた気持ちになりました。今までそうした人たちと自分をどこか無意識に線引きして、他人事のように思っていたのだと思います。同じ世界に住む人なのに。

彼らとは1日5時間くらい一緒に働きます。昼食の1時間は私と施設の職員さんと彼ら(日によるけど3~5人くらい)でお弁当を食べながら過ごします。こんなに長い時間一緒の空間にいるのに、私はどんな会話をしていいのかわからず、黙りこくってしまいます。きっと同じ大学生と一緒に昼休みを1時間過ごしていたらいろんな話ができると思うんです。「出身はどこなの?」「他にサークルやってるの?」「どんな勉強してるの?」みたいな。でも彼らを目の前にして、私はどんな話題を振るのが適切なのか、どんな話は苦手で、どんな話ならスムーズに会話が出来るのかが全く見当がつきません。もしくはそもそも会話をしたいのか、したくないのかすら判断できません。

 

今困っているのは、きっと今までこんな状況に立たされたことがなかったから。もっと言うと、自分からそういう状況になることを避けていたからなのかもしれません。

そしてこの無意識の線引きが、この世の中の断絶を生んでしまっているんじゃないかと思いました。自分と違う人、合わなそうな人とは出来るだけ距離を取る。それはとても楽な生き方かもしれない。葛藤が生まれることもなく、平穏に過ごせるのかもしれない。でもどこかに歪みを生んでいる可能性は十分にある。

 

自分だっていつどうなるかわからない

こんな最近のモヤモヤした感情を、この前初めて友人に話してみました。

 

「でも自分たちだって、いつどんな病気になるかなんてわからないよね。」

 

そんなところまで私は考えが至っていなかったなぁと素直に反省しました。私は今自分か感じてる問題意識にしか集中できていなくて、もっと違う視点から物事を見るということを出来ていなかったなという瞬間でした。

友人はその後も、「それだからこそ、きっとそういう人の雇用が保証される仕組みづくりが大事なんだろうね」とか、「大事ってみんな分かっているけどそれを実行しているそこの農家さんってすごいところだよねやっぱり」なんていう話をしていました。悔しいけど、私は頷くことしかできなかった。

 友人が言う通り、自分にいつどんなものが降りかかってくるかなんてわかりません。私が無意識に作っていた壁を、自分が相手から感じる時が来るかもしれない。そんなことないとは言い切れない。

 

だったら今自分が出来ることってなんだろうか。

自分が作っている壁を、少しずつ超えていくことなんだろうか。そんな簡単な解決方法(実践するのは難しいですが)でこのモヤモヤを片付けてしまっていいのだろうか。

一気に壁を取り払うことは出来ない。でも少しずつ歩み寄ってみることは、出来るのかもしれない。例えば私の事例を取って言えば、同じ職場の彼らにちょっと話しかけてみるとか、今までちゃんと話したことはなかったけど苦手意識を感じていた人とちょっと雑談してみるとか。

「私と違う」「きっと仲良くなれない」って割り切るのは簡単で、歩み寄るのは不安定をもたらすかもしれないけど、それでもそっちの人間関係の方が豊かかもしれない。もっとひとりひとりと向き合える、心優しい人間になれるかもしれない。

 

インターンとアルバイト

私はこの2つの違いが判りません。

そして、この2つの違いを明確に理解し、言語化できる人もそう多くはないのではないかと思っています。

どれも共通して言えるのは、何かしら社会に「価値」を生み出して、その対価として「お金」をもらっているという点。でもなんとなくその後に付随するイメージというものがあって、私たちはそういったものにどこか惑わされている気がするのです。

 

インターンの面接

この夏、生まれて初めてインターンなるものに申し込みしました。書類選考を通り、1次面接はオンラインでの面接となりました。

その面接で真っ先に聞かれたことは、「あなたが大学生活で一番力を入れている活動は何ですか?」というものでした。私は少しの躊躇の末「農業です」と答えました。その迷いというのは、その時期私は将来の進路を考え直したばかりで、国際協力の道ではなく農業の道に進みたいと思い直していたため、実際に今まで活動してきた内容としては国際協力の方が話せることは多かったのではないかとも思ったのですが、農業に対する気持ちを話した方が自分の中で納得して話せると思い、後者のテーマについて面接官に向かってお話しました。

自分は食に対してどんな想いを持っていて、それを周りの人に話しているうちに農業の世界に出会って、「農業」そのものも大好きになって、それに関してもいろいろな考えを持っていて、、、そんなことを自分が持てる話術を使い倒してお話しました。

 

余談ですが、私はこうした面接では(基本的にどんな時もなんですが)、本当の自分を話すことを心掛けています。面接でそんなきれいごと言ってたらどこも受からないと思う方ももしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、私はそれならそれでいいのです。むしろ面接の時点で私とその会社が合わないと感じたら、落としてほしいくらい。偽って受かって、あとで自分と合わない場所で苦しい思いするくらいなら、最初から一緒にならない方がいいと思うんです。

 

話を戻します。私が大いに日頃農業に対して思っていることだったり、自分がどんなに力を入れているかだったりをお話した後、その面接官に言われたひと言はこれでした。

 

「それは、アルバイトなんですよね?」

 

この瞬間、すぅっと心が冷めていったことは今でも忘れられません。私の今の話を聞いて、この人が一番気になったのはそこだったんだ。私の貴重な農業体験がアルバイトではなくインターンだったら、異なる反応が返ってきたのか。

 

この面接に私は落ちました。でも落ちて正解だと思ったんです。私のこの農業の「アルバイト」の経験を評価してくれない会社なら、別にいいやって。選考に落ちたのはちょっと悔しかった気持ちはあるけれど、でもそれ以上に何かを偏重していて何かを卑下している社風があの会話から垣間見えた気がして、ここで働くこともないよなと冷静に思っている私がいました。

 

両者に対するイメージ

その日からずっと自分の中でもやもやしていて。

この2つってそんなに大きな違いはないと思うんですよね。団体に属して、その団体の利益となること、もしくは社会に利益になることをして、報酬としてお金と経験をもらう。この構造はこの2つに共通したものだと思うんです。しかしながらこの2つの事柄に対する世の中の見方は大きく違っていることを、この時と強く感じました。

インターンやってる」という話をすれば、「すごいね、行動力あるね」と言われ、「この前アルバイト5連勤してきた」という話をすれば「お疲れ様」「バ畜だね」と言われる。一方は称賛され、もう一方はほんの少しだけ憐れまれているニュアンスを感じる。もちろん私だってこの2つの活動に対するイメージは違っていて、でもそのイメージって本当にその活動内容と合致しているのか、その人にとっての充実感とか成長に見合ったものなのかと問われれば、それは違うんじゃないかと思う。もっと想像の余地はあるんじゃないかと。

 

アルバイトって本当に「時間をお金に換える行為」なのか

なんとなく話の抽象度合いが増してきてしまって、自分でも何を伝えたいのかわからなくなってきてしまったので、具体例を挙げて説明してみることとします。

例えば、私はこんなお話をよく耳にします。

「大学生はサークルとアルバイトばかりしてないで、海外に行ってみたりインターンとかをしてみるべきだ」

でも、私は思うんです。アルバイト先で本当に貴重な経験をしている人ってたくさんいるんじゃないかって。実際私だって、はじめはただのアルバイトのつもりで始めた農業が、今では大好きなものになって、将来その道で生きていきたいとすら思えるくらいになっている。こんな体験してる人って私の他にもたくさんいると思うんです。また私の友人は小学校の先生になることが将来の夢で、そのために人に教える勉強をするために今は塾講師のアルバイトをしています。このようにアルバイトが直接自分の未来につながることなんていくらでもあるんじゃないかと思うんです。

アルバイトは時間をお金に変換する行為と決めつけないでほしいなと。

 

もしくは逆も言えると思うんです。インターンだって自分の身にならないインターンは山ほどあるんじゃないかと思っていて。インターンという名のただの「会社の駒」として食われてしまうような類のインターンもきっとあるんじゃないかと思うんです。

 

結論として私は言いたいのは、結局は自分次第だということ。月並みな結論ではありますが。自分がその活動に対して、どんな意識を持ってやるか、どんな目標を掲げてやるかなんじゃないかと。逆にそれがない人のところには有益なものは生まれないし、それがある人ならどんなアルバイトだって最高の成長するチャンスになると思うんです。

だから私は、後者の人間になりたい。インターンであれ、バイトであれ、ちゃんと自分の身になるようなことをして、この場所を選んでよかったと思えるようにしたい。

 

 

 

好きなものを語る人

好きなものを話をする人が好き

昔から私は「好きなものを語る人」が好きでした。

どれくらい昔からかと思い返してみると、思えば小学生くらいの頃、友達に歴史が大好きな子がいて、その子の話を帰り道によく聞きながら帰っていたなと思いだします。

 

別にその対象はなんだっていい。

素粒子だってお笑いだって車だってソフトボールだって言語学だって広告だって東ドイツだってキノコだって。その内容は私にとって問題ではないのです。その人がどれだけ楽しそうに話しているかが私にとって大事なことなのです。

そうした「語れるもの」を持っている人は、私と異なる観点からその「好きなもの」を見ている。そうした眼差しに触れることが私にとって新鮮なことであり、とても楽しいことなのです。

例えば以前先輩から「スーパーカミオカンデ」の話をものすごい勢いでお話されたことがあります。(高校でほとんど理科系科目を勉強していないため、その分野が化学なのか物理なのかすらよくわからなかった…)それでも、その先輩が本当に楽しそうにいきいきとその話をしてくれて、そんな姿を見ているだけでなんだかこっちまで幸せな気分になれるなぁと感じました。

あるいはお笑いが好きな友達。私もお笑いは好きで、普通にネタをみて笑うのが当たり前だと思っていたけど、彼曰く、お笑いにも「王道」があったり、「新しい形」があったりするみたいです。オチへの持っていき方とか二人のポジションとかも、わかる人が見ると何かがわかるみたいです。結局私は「そんな世界があるんだなぁ」と思うだけで何もわからなかったけど、目の前で話す彼が本当に普段見せないような嬉しそうな顔で熱心に話しているのを見ているだけで、こちらも嬉しい気分になれました。

 

人は自分の好きなものについて話すとき、本当にきらきらしている。そしてそんなきらきらした姿を一番身近で見ることが出来るというのはしあわせなことなんです。

 

時折、そうした好きなものを熱心に話す人のことを「オタク」と呼びます。一般的にオタクってそんなにいいイメージがないような響きの言葉だけど、個人的にはオタクは大好きです。オタクの話もっと聞きたい!オタク万歳って感じです。

 

だからこその羨ましさ

そんな語れるものがある人のことを羨ましく、時にはちょっと妬ましく思うこともあります。

「あなたには『これ』っていう大切なものがあって、それについてなら人よりも知っているとか話せるとかそういう自信があっていいよね」

とどうしてもほんの少し僻んだ感情を持ってしまう自分がいます。

 

私の姉は小学生のころからずーっとソフトボール一筋の人間で、いろんな話をしているとよく会話の中にソフトボールのことが登場してきます。そんな姉をずっとそばで見てきて、いろんな話をしてきて、その度に「そうして思考の軸がひとつに決まっている人って格好いいな」と思うと同時に、それと比べて自分には何も残らないなと思って勝手に悔しく思っていました。

 

私には軸がない。

いろんなことに興味があって、取り敢えず始めてみて、全部ある程度好きになれるし、かといってそれに完全にのめりこむことは出来ない。これだけは譲れないというものを持っているわけじゃない。何か一つを軸に考えるということが出来るような何かを持っているわけじゃない。

姉にそんな話をすると、むしろ姉はそれが羨ましいとも言われます。「何か」がなくても、その分自由にたくさん「好き」の幅を広げられるじゃん、と。確かにそれはそうなのかもしれない。「広く浅く」知ること、「狭く深く」探求すること。どっちも多分いいことで正解なんてなくて、結局隣の芝は青く見えるということなのかなと思ったりもします。

 

自分にとって好きなものとは

 そんなことを羨ましく思うばかりの今までだったのですが、最近自分の中でもやっと、胸を張って好きと言えるのはこれなのではないかと思えるようになってきました。

 

それは 【農業】【食べること】【本】

 

人と比べたらまだまだ知識や経験なんて…と恥じることなく、堂々とこれが私は好きだと言えるものになったと思っています。

 

自分の中の根本を支えるもの、

普段の生活を豊かにするもの、

苦しい時にすがるためのもの、

人との会話の糸口となるもの、

それが好きなもの。

 

自分はこの分野でまだまだだなんて思わないで、

自分はこれが好きだなぁとか、

これのこと考えているとき夢中になっているなぁとか、

つい人と話すときにこのことを話題に出してるなぁとか、

そんなものがあったら、きっとそれは私の好きなものなんだということにやっと気づけました。

 

気づけたから、もっと知りたい。いろんな人と話したい。

いろんな分野のオタクの方、ぜひいっぱい私に話してください!!