あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

情報再考

現代社会は「情報社会」と呼ばれています。

インターネットが世界中をつなぎ、リアルタイムで世界中の人と繋がることがる。それは名前も顔も知らない人であっても。望めば自分からたくさんのことを発信できるし、そのせいでたくさんの情報が世の中に転がっている。たった数個の文字をパネルに打ち込むだけで、私たちは自分の知りたいことに簡単に辿り着けてしまう。そんな世の中に私たちは生きています。

 

 

突然ですが、最近なるべく歩くようにしています。

最近の移動は自転車か車に頼りきり。目的地には早くつくけど、何かを感じたり考えたりする暇もなくあっという間に景色を通り過ぎてしまいます。

移動手段を徒歩に変えて、見える景色も、聞こえる音も、感じる風も、全部違うものになりました。情報というものの定義を明確に理解しているわけではないけど、明らかに早くその道を通り過ぎていた時よりも、情報は多い。

 

ふと情報って必ずしも視覚的に得られる文面だけではないんじゃないかと考えました。

私が普段「情報」として認識しているのは主に誰かが書いた文章。

組織論とか食の安全性に関する記事とかコミュニティに関しての提言とか農業全般に関することとか。それは公式な文章もそうだし、誰かの想いつきのようなつぶやきかもしれないし、はたまた誰かの行き場のない社会に対する憤りなのかもしれない。

電子機器が1台あれば簡単にアクセスできて、簡単にアクセスできるはずなのに私はそれに疎いからあんまりうまく使いこなせてなくて、勝手に「自分は情報弱者だ」とへこんでしまう。

 

私は情報の定義を狭く捉えすぎてはいないだろうか。情報というのはもっと広い意味で使える言葉なんじゃないか。そんな風に思い始めた散歩道です。

 

「東京には人・もの・金・情報が集まる。だから自分は東京に身を置きたい」と考えている人、結構多いんじゃないかと思います。私もかなり強くそう思っていた時期があって、その時期はつくばに住みながらも毎週のように東京に行って、いろんな人に会っていろんなお話を聞いたりして、行くたびに何かしらのつながりを作っていました。そういうことに時間を使っていた時期もある一方で、最近はのんびりしたつくばに籠り、のんびりとした日々を過ごしています。(こういう風に書くとすでに隠居生活を始めた人みたい笑)

 

そうすると今まで見えてこなかったものがたくさん見えてくる。聞こえてこなかったものが聞こえてくる。感じられなかったものが感じられるようになる。

たくさんのことを自分の体で感じている今、情報って今まで思っていたよりももっと広義のものなのかもしれない、ということを感じるようになりました。大学生になってから、いやもっと前から、私は情報社会についていけないと思っていましたが、案外そんなことはなくて、人は感じとれない情報を私は感じ取る能力があるのだからそれはそれでいいのかもなと、おおらかな気持ちになれたり。