あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

わからないことを人に聞く

とっても賛否両論がある考えだと思うので、反対意見があることも承知で今回の文章は書いていきます。

 

私はわからないことは何でも人に聞いてしまいます。それについて考えたこと。

 

相手の時間を奪っている

という意見の方。結構多くいます。特に優秀な方が多い。確かに私が誰かにわからないことを聞いている間、その人は何らかの作業をストップせざるを得ないし、それによってその人の作業効率を下げてしまうことになる。

私はこの意見を聞いたとき、今までの自分の行動を恥ずかしく思いました。基本的にわからないことはすぐに人に聞いてしまう性格なので、これまで自分はどれほど相手の時間を奪ってきたのだろう、と。

でも後からよくよく考えてみると、意外と反論の余地はあるんじゃないかと思えてきました。まず1つ目、その人自身もその質問によって得るものはあるかもしれないということ。なんとなく分かったつもりでいて、でも改めて人から尋ねられると答えられないものって案外多いですよね。それでそのことに関して調べてみたり考えてみたりするきっかけを得られたりとか出来ますし。

そして2つ目、もしかしたらその質問がきっかけでコミュニケーションがスムーズになるかもしれないということ。お互いの知識レベルをわかっておくことって、一緒に何かする上で非常に大事だと私は思っています。基本的に私は自分よりも優秀だなぁと思う人と、何かしらのプロジェクトをやっているので、そのメンバーの中で私が一番いろいろな面において知識不足であることは予めわかっている状態で始まります。そんな状況に甘えるわけじゃないけど、その人たちの会話の中でわからない言葉が出てくればなるべく聞き返すようにしています。それは、その人たちが当たり前に使う単語って、意外と他の人は知らなくて、でも意外と知らないってことをそのことばを使っている人はあんまり知らないんですよね。わからない方が必死で追いつけよという意見もありますが、自分の能力を相手に知ってもらうことも、これはこれで社会の中を生き抜く一つのスキルなんじゃないかと思っています。

 

もっと正確な情報をGoogle先生は知っている

そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。確かにGoogle先生は私たちの脳よりもはるかにたくさんの知識を持っていて、そうした情報をあの手この手でわかりやすく私たちに教えてくれて、それだから私たちは彼のことを現代人の必須アイテムとだと一定の信頼を置いています。

でも本当に欲しい情報が載っていないときも度々あります。例えば彼は旅先の本当の楽しみ方は教えてくれません。人気のおしゃれスポットとか、おいしいごはんやさんとかは教えてくれるけど、道を教えてくれる親切なおばさんがどこにいるかなんて検索したって分からない。自分で道端で出会った人を見極めて声をかけるしかないのです。

そしてその情報が正しくないことだってあります。この前の土浦花火の時もそう。花火が一定期間中断していた時、twitterにはたくさんの「土浦花火 中止」の文字が並びましたが、結局30分後には再開していました。ネットの情報は早い分、精査されていないから間違っている情報が流れちゃったりする。それがあったいう間に広がるから、その情報でネット上が騒がしくなるから、みんなはそれを本当だと信じてしまう。

 

そんな世界だからこそ、私は人を信じたい

再三ここでも言っていますが、私は情報社会に辟易しています。今すぐにだってネットがなくなっても困らないと断言できるくらいに。出来る限り、ネットに載っていることがなくて、今目の前にいる人の話が聞きたいし、その人が言うことを信じたい。こんな世界だからこそ。