あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

さよなら、目標に頼る私

いろいろな人が文章として「2019年のまとめ」とか「2020年の目標」とかを自分のことばで表現している。私も去年それを試みたし、ついこの前まで言語化しようとしていた。

しかしながら、なんだかそれが必要ないもののように思えてきた。

なんでなんだろう、と気になって自分なりに今答えを探している段階だけど、何となくここが原因だろうなというものは見えている。

 

まず思うのが、目標なんて立てなくてもどうせ私はなるようになるという、絶対的な安心感というか自信?のようなものがあるからじゃないかということ。もう今の時点で4月からインターンをすることも10月からオーストラリアに行くことも決まっている。だから目標なんて立てなくても、激動の1年になることは目に見えているんだ。

それだから敢えて目標なんて立てない。立てる必要がない。

目標を立てなくたって絶対に今年1年は私にとって激動の年になるし、そもそも激動じゃなかった1年なんてない。もっと言えば人は毎日変化する生物なんだから、昨日の私と今日の私は違う存在と言える。そんな私が365日積み重なるんだから、激動にならないわけないんだ。

目標を立てずとも、私はきっと充実した毎日を送ることが出来る。多分毎日ちょっとずつつらいこと・苦しいことに直面するかもしれないけど、それも日常のちょっとしたスパイスだよなと思って、明日には笑い飛ばせるようなものだよなと軽く考えて、ちょっと踏ん張っていけるくらいには私は強いと思いたいし、仮に強くなんかなくても支えてくれる人がいるから大丈夫って信じている。

 

 

もう一つ思うのが、人に言える目標なんて、かなり虚勢を張っているものなんじゃないかということ。

やっぱり人間は承認欲求を少なからず抱えている人間だから、どんな行動にも人に認められたいという意図がついて回ってしまう。

長距離走で自己ベストを更新する。

筑波大学に受かる。

英語を話せるようになる。

ブログを毎日続ける。

学生団体を立ち上げる。

私が今まで立てた目標なんてどれも、その気持ちの何割かには承認欲求が含まれているものばかり。いかに自分がそれに向かって頑張れるすごい人間かというのを、人に言いふらしているようなものだったのかもしれない。承認欲求がいけないわけではない。むしろそうしたものはその人の行動意欲を掻き立て、挑戦する心に火をつけるものとなるだろう。

でも私はちゃんと自分を自分の背の丈で見れて、出来ない自分も愛してあげられる自分になりたい。私は何にもできないけど、それでも私は私だからそれでいいんだって、成長しなくたってしあわせに生きれるんだってことを許せるようになりたい。

 

影響力のある人の発言をいろいろなSNSを通じて読むたびに、「自分はこのままでいいんだろうか」と不安になる。自分の幸せだけを見つめて、のんびり生きていたい。そんな牧歌的な考えでは世の中生きていけないんじゃないか。もっと物事に貪欲に挑戦していくことが必要なんじゃないか、そんなことを日々考えては「でもやっぱりそれは私にとってのしあわせじゃない」という結論に至る。

自分が憧れる人、すごい人って思う人はいつだって私とは違う世界に住んでいて、私とは違う発想をができる人だ。私は、そういう人に惑わされたくない。その人がどんなに大きな声ですごいことをいったって、それでも私を貫ける私でありたい。ちゃんと自分のしあわせを考え続けられる人でありたい。

 

ただ、今、思うことは、

今年1年幸せに過ごせますようにということ。

それさえあれば、とりあえず私はいいかななんて。

それと私にとって大切な人たちも、ちゃんと幸せでありますように。

大切な人と幸せな時間を共にできますように。

 

これじゃ目標ではなくて単なる願いだ。

でもそれでいい。

それで私がしあわせなら。