好きなものを語る人
好きなものを話をする人が好き
昔から私は「好きなものを語る人」が好きでした。
どれくらい昔からかと思い返してみると、思えば小学生くらいの頃、友達に歴史が大好きな子がいて、その子の話を帰り道によく聞きながら帰っていたなと思いだします。
別にその対象はなんだっていい。
素粒子だってお笑いだって車だってソフトボールだって言語学だって広告だって東ドイツだってキノコだって。その内容は私にとって問題ではないのです。その人がどれだけ楽しそうに話しているかが私にとって大事なことなのです。
そうした「語れるもの」を持っている人は、私と異なる観点からその「好きなもの」を見ている。そうした眼差しに触れることが私にとって新鮮なことであり、とても楽しいことなのです。
例えば以前先輩から「スーパーカミオカンデ」の話をものすごい勢いでお話されたことがあります。(高校でほとんど理科系科目を勉強していないため、その分野が化学なのか物理なのかすらよくわからなかった…)それでも、その先輩が本当に楽しそうにいきいきとその話をしてくれて、そんな姿を見ているだけでなんだかこっちまで幸せな気分になれるなぁと感じました。
あるいはお笑いが好きな友達。私もお笑いは好きで、普通にネタをみて笑うのが当たり前だと思っていたけど、彼曰く、お笑いにも「王道」があったり、「新しい形」があったりするみたいです。オチへの持っていき方とか二人のポジションとかも、わかる人が見ると何かがわかるみたいです。結局私は「そんな世界があるんだなぁ」と思うだけで何もわからなかったけど、目の前で話す彼が本当に普段見せないような嬉しそうな顔で熱心に話しているのを見ているだけで、こちらも嬉しい気分になれました。
人は自分の好きなものについて話すとき、本当にきらきらしている。そしてそんなきらきらした姿を一番身近で見ることが出来るというのはしあわせなことなんです。
時折、そうした好きなものを熱心に話す人のことを「オタク」と呼びます。一般的にオタクってそんなにいいイメージがないような響きの言葉だけど、個人的にはオタクは大好きです。オタクの話もっと聞きたい!オタク万歳って感じです。
だからこその羨ましさ
そんな語れるものがある人のことを羨ましく、時にはちょっと妬ましく思うこともあります。
「あなたには『これ』っていう大切なものがあって、それについてなら人よりも知っているとか話せるとかそういう自信があっていいよね」
とどうしてもほんの少し僻んだ感情を持ってしまう自分がいます。
私の姉は小学生のころからずーっとソフトボール一筋の人間で、いろんな話をしているとよく会話の中にソフトボールのことが登場してきます。そんな姉をずっとそばで見てきて、いろんな話をしてきて、その度に「そうして思考の軸がひとつに決まっている人って格好いいな」と思うと同時に、それと比べて自分には何も残らないなと思って勝手に悔しく思っていました。
私には軸がない。
いろんなことに興味があって、取り敢えず始めてみて、全部ある程度好きになれるし、かといってそれに完全にのめりこむことは出来ない。これだけは譲れないというものを持っているわけじゃない。何か一つを軸に考えるということが出来るような何かを持っているわけじゃない。
姉にそんな話をすると、むしろ姉はそれが羨ましいとも言われます。「何か」がなくても、その分自由にたくさん「好き」の幅を広げられるじゃん、と。確かにそれはそうなのかもしれない。「広く浅く」知ること、「狭く深く」探求すること。どっちも多分いいことで正解なんてなくて、結局隣の芝は青く見えるということなのかなと思ったりもします。
自分にとって好きなものとは
そんなことを羨ましく思うばかりの今までだったのですが、最近自分の中でもやっと、胸を張って好きと言えるのはこれなのではないかと思えるようになってきました。
それは 【農業】【食べること】【本】
人と比べたらまだまだ知識や経験なんて…と恥じることなく、堂々とこれが私は好きだと言えるものになったと思っています。
自分の中の根本を支えるもの、
普段の生活を豊かにするもの、
苦しい時にすがるためのもの、
人との会話の糸口となるもの、
それが好きなもの。
自分はこの分野でまだまだだなんて思わないで、
自分はこれが好きだなぁとか、
これのこと考えているとき夢中になっているなぁとか、
つい人と話すときにこのことを話題に出してるなぁとか、
そんなものがあったら、きっとそれは私の好きなものなんだということにやっと気づけました。
気づけたから、もっと知りたい。いろんな人と話したい。
いろんな分野のオタクの方、ぜひいっぱい私に話してください!!