どうして生きているのか
一緒に青森を旅行した友人。その子も一人旅することが好きらしく、山登りとかにでかけるそうだ。その子と奥入瀬渓流を歩きながら「一人旅の時に何を考えているか」ということについてぽつぽつおしゃべりしていた。そしてその子は言った。
「私はどうして生きているのかということをよく考えるかなぁ」
全然考えたことなかったな。
多分このテーマに関して今まで何も考えていなかったのは、考える必要がなかったからなのだと思う。どうして生きているのか考えずとも、私はこうして生きている。それなら考えたって仕方がない。だって生きてるんだもん。この事実はどうしたって変えることが出来ないものなんだもん。
彼女のお話をよく聞いてみると、どうして生きているのかというより、何のため、誰のために自分は生きているんだろうみたいなことを考えているんだそう。幼いころから将来の夢は小学校の教師になることで、今のそれに向かって教育学部で勉強している彼女は、将来自分の教え子の為に人生を使いたいけど、他人のことばかりに気を揉む人生のなんか違うなぁと悩んでいたり。
私もかつて将来の夢に国際協力を掲げ、誰かの為に自分の人生を使いたいと思っていた。でも大学に入ってそうした活動を実際にやってみたり、異なる分野に手を出してみたりするうちに、「自分が本当にやりたいことはこの分野ではないな」ということに気づいてしまったため、今はそうした活動からは退いている。
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せっかく、どうして生きているのかという壮大な問いを彼女から投げかけられたため、しばらくの間考えていた。
考えた結果、生きている意味なんてないんじゃないかなというのが私の見解。
別に生きることに意味なんてなくて、私がこの世にいてもいなくても普通に他の人は生活していけるんだろうな。私が誰かに与える影響なんて大したことない。きっと。
別に私のこの考えは人生を悲観しているわけではない。むしろ生きている意味なんてないからこそ、私たちは勝手に生きている意味というものを作れるのだと思う。
特に誰かの期待に応えようと片意地を張るわけでもなく、何かあっても誰かのせいにするでもない。常に主語を私にして、自分のために生きる。勝手に自分の人生に大きな荷物を背負わせてしんどくなるより、これくらい気楽に考えた方が楽しく幸せに生きることが出来るだろう。それこそがこの壮大な問いに対する私なりの答えだ。
みんながみんな、いかに自分がしあわせになるかを考え始めたら、世の中しあわせに生きている人が増えるのかもしれない。誰かと比べての数値的な「しあわせ」じゃなくて、完全に主観的で自分勝手な「しあわせ」の方を掴むことが出来るのかもしれない。私はこの仮説を自分自身で証明できるような人生を送りたい。
タイトルの結論を最後に言うと、わたしはしあわせになるために生きているというのが私の答えだ。