生産と消費の間で
母の消費
実家の母の買い物の基準。
「いかに安く、量が入っているものを手に入れるか」
これを最重要視していました。
消費期限が近くなって安くなったものを大量に買い込んでダメにしてしまったり、冷凍された安い外国産の食肉を買ったり。安さに負けて要らないものを買う、そして価値あるものに目がいかなくなってしまう。
当時は何も感じていなかった。
でも今ならわかる。
こうした消費が日本の産業を苦しめているということを。
母の消費を完全に批判しているわけではなりません。
母はお金の無駄遣いを極端に嫌う人でした。
だからコンビニに立ち寄ることも、自販機でぽちっとすることも基本的には我が家では許されないことでした。
昼食が必要な日には必ずお弁当を持たせてくれ、どんなに朝早くても(お弁当を作るような余裕がないような日でも)おにぎりをいくつか握って持たせてくれました。途中でペットボトルを買わなくてもいいように水筒を持たせてくれました。
買い物をするときは決まって買い物袋を持参していました。そのため母がスーパーで新しい袋をもらっているのはほとんど見たことがありません。
幼いころの家庭環境って、いくつになっても思考の癖として残ると思います。
だから私は今だって、安いものを買うし、コンビニには行かないし、買い物行くときはかならずバックを持参している。
野菜を作る人の近くにいて
そんな幼少期を過ごした私は、ひょんなきっかけから農業の世界に足を踏み入れるようになりました。
「消費」しかしてこなかった私が、「生産」について知ることとなった。
そこには私の知らない世界が広がっていた。
朝早くから畑に行き野菜たちの様子を見てお世話をして、暑い日も凍える日も雨の日も種まきから袋詰めまで地道な作業をして、やっと出荷にこぎつけられた野菜たち。苦労しても農業はあまりお金にならないやるせなさ。少しの気のゆるみが大きな失敗につながってしまう厳しさ。
農家さんが大切に大切に人生かけて野菜を育てている姿を見て、初めて気づきました。
私たちが食べているものは、誰かが心を込めて作っているという当たり前の事実を。
きっとこれは、ひとりで畑を始めても気づけなかった。農家さんという農業のプロの一番近くで働いたから気づくことができた。
大切に、誰かの手によって作られているのはもちろん野菜だけじゃない。
世の中にあるすべてのものは「誰か」の手によってつくれられている。
日常の中でいつの間にか埋もれてしまう大切な事実を、生産の現場に立ったからこそ思い出すことができた。
私の消費
そんな生産する側と消費する側の両方の立場になってみて初めて、
「自分ができるよりよい消費ってどんな形なんだろうか」ということを考えるようになりました。
大学生になって、圧倒的に消費の選択をする機会が増えました。
高校生の時よりはお金を持っている。一人暮らしをするためには今までは自分の買い物の範囲には入っていなかった食べ物や日用品までも買う必要がある。その際に自分のこだわりを持つこともできるし、極限まで切り詰めるという選択もできる。
安いものを、安いものを、という価値観のもとで育った私は、いまだにその考えから抜け出せず、ついつい安いものに手を伸ばします。決して安物を追い求めることを批判しているのではなくて、本当にその消費に納得しているのか、それをその代金の代わりとして得たことで本当に私は嬉しいのか、とかとかそんなことを考えながら今日も安売りの卵をかごに入れる。
でも少しだけ自分の中の心の変化もあって。
自分の中で「これはケチらない」という基準ができつつあります。
人とご飯を食べに行くお金、交通費、旅行するお金、本を買うお金、自分が本当に好きな雑貨を買うお金。交際費や交通費は自己投資、それと後半3つは人生をより豊かにするための消費。
この基準ができただけでもちょっとは成長したのかもしれない。
選択をするというのは応援するということ
私が自分自身の消費の在り方に疑問を持ち始めたのは、ある人からこんな言葉をいただいたからかもしれません。
「選択するというのは、その商品をその生産者をそしてその地域を応援するということ」
災害などが起こるとよく言われることですが、普段からこれに関する意識を持っている人はどれほどいるでしょうか。
少なくとも私は自分の消費で誰かを応援している感じは持てていない。
それは現代の流通の在り方に問題があるのかもしれないし、単に私の想像力の欠如かもしれないし、はたまた生産者の努力不足なのかもしれない。
このことに気づいたからには、気づいていないときよりも何か違うことをしたい。
ちゃんと誰かを応援できる消費をしたい。
学生だから、
切り詰めたいから、
そんな言い訳を作って、商品を買いたたくのは簡単だ。
でもその先に悲しんでいる人がいるかもしれない。
そういう想像力を働かせてみることも必要かもしれない。
そうした想像力を働かせたうえで決断した消費は、私の中に次なる変化をもたらすかもしれない。
そう考えると、消費を変えるということに少し前向きになれる気がする。