あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

世界に名付ける

つくしを「見つける」

春になりました。

暖かい日が続いてますね(暖かいというよりもはや暑い?)

みなさんは今年の春、つくしを見つけましたか?

私はこの春、たくさん見つけました。畑のあっちこっちに生えているんです。

 

「つくし」と言われて頭に浮かぶもの、おそらく多くの人はこんな感じのものだと思います。

全体的にマイクみたいな形をしていて、茶色っぽくて、頭の方に胞子がついていて。

でもつくしの姿ってそれだけじゃないんです。

 

畑にいるとき、「この雑草なんかうまく抜けないんだよなぁ。根っこが途中でブチって切れちゃって」と思いながら抜いている雑草がありました。黄緑色のわしゃわしゃしている雑草です。その雑草を指さし、「これね、知ってた?つくしの葉っぱの部分なんだよ」と先輩から聞かされた日の衝撃と言ったら!!

 

今まで煩わしく思っていたこの雑草は、実は私の大好きなつくしだったのか!!

 

それに気づかされてから、私の見る世界は大きく変わりました。「煩わしい雑草」が「私の大好きなつくしの一部」に変わったのです。畑にはびこるあの子たちがなんとも愛おしい存在に見えてきました。

 

視界に入っているはずなのに、私には見えていなかった

畑に行くようになってから、私はたくさんの動物を形どれるようになりました。

 

元気に鳴いているあのコはヒバリ。

ニンジンを抜いていると、どこからともなくやってくるのはハクセキレイ

私たちのすぐ近くを、空気を切り裂くように飛んでいくのはツバメ。

 

植物だってそう。

ただのきれいな空き地だと思っていたらそこは芝生を育てる畑だった。

大きな葉っぱの植物を掘ってみたら里芋が出てきた。

ネギ坊主は、なんとネギの花の部分だった。

 

今まで約20年間生きてきて、鳥たちが飛んでいる光景も、植物が畑で生きている光景も幾度となく見てきた、はず。でも誰かに教えてもらうまでは気づかなかった。

きっと今まで何度も素敵なものを見逃してきたのかもしれない。

でも少なくとももうヒバリもつくしも見落とさないだろうし、これからもっとたくさんの切り取れるものと出会えると思うとなんだかほっこりした気持ちになります。

 

ことばがあるから認識できる

今まで見えていなかった世界が見えるようになるのって、おそらく名前のわからなかった事象や物体に名前があるからなのだと思います。

(大学受験の倫理の勉強で確かこんな主張をする哲学者がいた気がするけど思い出せない…。)

習った当時は、「そこにあるものはそこにあるのだから、あるじゃん(笑)」とその理論を気にも留めなかったのですが、ここ最近のこうした体験からこの理論は的を射ていると感じるようになりました。

 

今回の例でいうと、私はそこにトリが歩いていたのは見たことがあったけど、その名前を知らなかったから、今までその鳥を認識できていなかった。でも先輩に「ハクセキレイ」という名前を教えてもらったおかげで、その鳥のことを認識できるようになりました。

 

そうして認識できるものが増えると、世界は楽しい。

目に映るものの名前がわかったり、名前だけではなくて名前の由来とか特徴とかそんなものたちがわかると、より楽しい。

 

「世界を知る」ということ

中学生の時くらいから、いろんな世界を見てみたくてたまらなかった。自分が住んでいる日本とは別の世界、学問の世界、大人の世界。だから、海外に行ってみたりもしたし、一生懸命勉強もしたし、いろんな人に会いに行った。でも家族からはそれがあまり理解されていなかった。

「世界は広くて、死ぬまでに知れることなんてほんの一握りなのに、なんですべてのことを知りたがるの?全部知ることができないなら手に届く範囲のことだけ知って生きていけばよくない?」と。

 

確かに、「知りたい」を探求したらキリがない。

きっと私はAI技術のことを今から勉強してもチンプンカンプンだろうし、地球の裏側に住む先住民がどんな生活をしているのかなんてきっとこの先知らないままだろう。全部を知ることはできないことはわかってる。でもわかったうえで、できる限りいろんなものを知りたいし吸収したい。

 

それは「知る」ということ自体が、楽しくて自分をわくわくさせてくれることだから。自分の知らなかった世界を見るってこんなに楽しいことだったんだ!ということをつくしとヒバリとそれからネギ坊主が教えてくれました。

遠いところに頑張っていかなくても、身近なところにもたくさんわくわくできる発見はある。それに気づくか気づかないかは自分次第。

 

そんなことを考えている5月最後の土曜の朝です。