あんこの開墾日記

自分自身を耕して、掘り起こして、本当にしあわせな私のありかたを発見したい。そんな想いで書いてます。

私はお手伝いが好き

「しっかりしてるね」と言われ続けた今まで

 

小学生の時から周りの大人から「しっかりしているね」と言われてきました。

おそらく中間子という性質上、「いかに大人から怒られないで生きていくか」という事を無意識に考えていた結果なのだと思います。

 

 

「しっかりしているね」と言われる分、学級委員とか部長のような人をまとめる役職を任されることがとても多かったように思います。

別にそれ自体嫌でもないし、むしろ誰かが望んでくれているのなら積極的にその役職を買って出ていました。

 

 

代表が向いてる?

そんな小中高校生時代を送った私は、「自分は長と名のつく役職が向いている人間なんだ」と信じ込んでいました。

 

私が周りから求められている能力とは、

気持ちの面で集団の士気を上げたり、

上の立場の人と密にコンタクトを取り集団の状況を改善する方法を模索したり、

みんなの意見を拾って集約し、一つの結論を導くことで集団の方向性を決めたり、

 

周りの大人からこうした能力を求められていて、自分自身もこうした役割が自分に合っていると過信していました。

 

 

代表にはなれない

今までそう信じてやまなかったのに、何かが違うと思い始めました。きっかけは入学してから今まで続けてきた学生団体の代表をしていて感じたことです。

 

「私は年上の人の顔色を窺うのが得意なだけなのかもしれない」

「メンバーが考えていることをちゃんと拾い上げられていない気がする」

「私は自分の意見を相手に伝えるという能力に長けているだけなんじゃないか」

 

考えれば考えるほど、自分は団体のトップに立って行動するべき人間ではないように思えてきたのです。

 

 

 

誰かの「おもい」に共感する力が強い

そんな風に考え込んでいた矢先、ある出来事が起こりました。

それは昨年の12月に名古屋を訪れたときのことです。

丸々一日、名古屋城を見る以外の目的を決めることなくひたすらに名古屋の市街地を歩く旅でした。

その唯一決めていた目的地である名古屋城にて、名古屋おもてなし武将隊の方々のパフォーマンスを多くのちびっ子に囲まれながら見ていました。彼らの使命はたくさんの武将がゆかりを持つこの名古屋の地で、名古屋の魅力を国内外に発信して、いろんな人に名古屋に訪れてもらおうというものです。

つまり観光大使のような存在の彼ら。普段なら「頑張ってるなぁ」くらいで通り過ぎてしまうのですが、その日は大いに時間を持て余していたので少しの間のぞいてみることにしました。

最初のうちは何気なく、でも彼が発信するメッセージを受け取っているうちにいつの間にか食い入るように彼らを見ていました。

そうしているうちに本当に彼らが世界に名古屋を発信できるような集団になってほしいと強く感じるようになりました。

自分でもこの心境の変化は驚きで、ここから「もしかしたら自分は、何かに本気で取り組む人に共感する力を人よりも持っているのかもしれない」と考えるようになりました。

 

考えてみると今まで自分がしてきた行動は、すべて人の思いが詰まったことだったように思います。

それをやっている人が、どんな思いで、どれだけ行動していて、どんな世界を望んでいるか、

そういうことを知ったうえで、その想いに共感して、その行動力に感銘を受けて、その世界を一緒に見てみたいという想いでその人の手伝いをしているのだという事に気づきました。

 

つまり、私は「お手伝い」が好きなのか。

それまでは考えてもみなかった新しい自分の発見でした。

 

 

 お手伝いは責任逃れ?

私はお手伝いが好きなのかもしれないという話を姉にすると、

「お手伝いっていうポジションは楽だもんね。自分で責任を負わなくていいんだから」と言われました。

 

薄々自分でも思っていたことではありましたが、このことばがずしんと心に響きました。

確かに「お手伝い」というポジションはとても気楽なものです。

その活動に参加しているという自己満足を持ちつつ、大変さは背負っていない。

 

 

自分は無意識に楽な選択肢を選んでいたのか、と。

 

その言葉はずっと心の中に残り続けていました。

もっと挑戦し続ける自分でありたいのに、無意識のうちに挑戦することを避けている、しばらくそんなギャップに苦しんでいました。

 

 

「お手伝いが好き」の肯定的な意味づけ

こう考えていると、本来お手伝いが好きなはずなのに、真っ向からお手伝いを否定している自分がいるのです。

この感覚が嫌なので、お手伝いを肯定的に意味づけしてみようと考えました。

 

まず一つ目。

お手伝いという存在はこの世になくてはならないものと思いました。

みんながみんな、突っ走る人だらけだと、それを支える人がいない。

支える人がいないと立ち行かなくなることはたくさんあるんじゃないかと思うんです。

だから、突っ走る人は社会をよりよくするうえで絶対に必要な人ですが、支える人という存在も同じくらい必要なのかもしれない。

革新を起こす人が革新を起こし続けるために。

 

そして二つ目。

この立場をとることで、いろんな視点が手に入ると思います。

自分の「これだ!」というものを見つけた人は、それを叶えることをすべての行動基準として考え突っ走っていく傾向にあり、それ故に盲目になってしまうこともあります。

でもいろんなお手伝いを経験することで、今まで自分にはなかった視点を手に入れることができますし、それによっていろいろな思いを持つ人にも出会えると思います。

 

 

これから私はどうしたいのか

やっぱり私はお手伝いがしたい。

それはきっと、「お手伝いがしたい」というより、その人と想いを共有したり、時間を共有したり、それによって価値を想像したり、そういうことをしたいのだと思います。

その人の想いに寄り添える人でありたい。

 

 

でもそれと同時にちゃんと自分が主体となって何かを作り上げたいという想いがあるのも事実です。

お手伝いする人、だけで終わりたくない。

自分も挑戦する人でありたい。

何に挑戦するのかはまだはっきりと見えていませんが、今のところはちゃんと自分の畑を作っていくことをやっていきたいですね。