あめをたのしむ
「あめ」ってずっと嫌いだった。
大切な大会、雨。
高校の入学式、雨。
小学校の林間学園、雨。
準備に多くの時間を費やした文化祭や合唱祭、雨。
私の大切な記憶はいつもいつもあめばかり。
つまり私は雨女なのだ。
だからずっと「あめ」は嫌いだった。
いつか高校の頃の恩師は言っていた。
「あめは何も意味を持たない。そこに何かを意味づけているのは人間。」
その時から恩師が言っていることはわかっているつもりだった。
恩師は私にこう伝えたかったのだろう。
「あめには嫌われる要素などなく、あなた自身が勝手に嫌いになっているのだ」と。
言いたいことはわかる。
でも、感情的には頷けなかった。
ところが今年の梅雨時。
ふと、あめが私に微笑みかけているような感覚があった。
この感覚を言語化するのは非常に難しいが、あえてことばにするならそんな表現になると思う。
とにかくあめが嫌ではなくなったのだ。
むしろあめが美しく見えるようになった。
あめが濡らす露草のはかなさに気づいてしまった。
あめがもたらすひんやりとした空気を心地よく感じるようになった。
雨粒がはじき出すこまやかなリズムがこころに響くようになっていた。
そうした感覚に一度気づくと、ますますあめを愛するようになる。
つまり、わたしはあめの楽しみ方を体得してしまったのだ。