効率化を極端に求める現代
そもそもこれに引っかかるようになったのはいつから?
「効率よく」という言葉が好きじゃなかった。
記憶を遡ると、はっきりとこの言葉に対して嫌悪感を覚えたのは高校2年生のころだったと思います。そろそろ大学受験に向けて勉強を始めなければならないという時期に友人と話していて、
「大学受験なんてさ、いかに効率よく勉強できるかにかかってるんだと思うんだよね」
と言われたのをよく覚えています。
当時私は非常に効率の悪い勉強法をとっていたので、自分の勉強法を全否定されたように感じてしまいました。それでも中学生の頃から自分の勉強法には自信を持っていたから、よりむっとしてしまったのだと思います。
それ以来、私は人の口から出てくる「効率」という言葉に敏感に反応しているような気がします。
もちろん「効率主義」の考え方が理解できないわけじゃない
私だって効率的に物事を進めたいときはあります。
早く終わらせられるなら、早く終わらせた方がいい。そう思うことだってある。
洗濯は洗濯機に任せたいし、掃除だってできるならルンバに任せたいし。(めんどくさがりだし特別きれい好きでもないから、掃除と洗濯はあまりやりたくない質)その分自分の「好きなこと」「やりたいこと」に時間をさける。私の場合だと読書とか料理とか。
「効率」と「お金」は深く結びついています。
効率よく物事を処理できればその分出来る作業も増えるし、出来る作業を増えれば生産性が上がって収入だって増える。短時間で作業をたくさんこなせる人ほど世の中では重宝され、評価され、高いお給料がもらえる。
生きていくうえでやっぱりお金は必要だし、そんなことを考え始めるとやっぱり効率よく物事を進めることって大事なんだろうなと感じます。
その言葉に引っかかる
ただただ、引っかかっているだけ。
「それ、効率悪くない?」
「この作業は時間との勝負」
そんなことを人から言われるたびに、なんとなく引っかかってしまう。
引っかかるというより、「ひっ」と身の縮む思いがする。
なんで私たちは効率化を求めているんだろう。
そんなに時間を切り詰めて、その余った時間を私たちは何に使いたいんだろう。
究極的に「効率」を求めた先に何が待っているんだろう。
別に時間かかってもいいじゃん。
生産性なんて求める必要なんてあるのかな。
ゆっくりやりながらその行為自体を楽しめばいいじゃん。
そこまで急いであなたはどうなりたいの?
そんな言葉を必死に飲み込んで生きている。
求めすぎる世の中
人びとはあまりにも効率化を求めすぎて、空っぽに近づていってしまっている気がします。
便利になっていくのが当たり前の世の中で、立ち止まっている方がおかしいと。便利を求めて求めて求めて、それが当たり前になって、足りない足りない足りないって。そうしているうちに、どんどん心が満たされなくなってしまっている気がしてならないのです。
求めれば求めるほど満足度が減っていって、自分はたくさん持っていることを忘れて、誰かと比較して自分はあれもない、あれもできないってそればっかりに目が行っちゃって、落ち込むことなんて全然ないはずなのに勝手にへこんじゃう。
これは世の中に対してだけ言っているわけじゃなくて、自分に対しても。
効率化好きじゃないと言いつつも、何かを求めすぎたら虚しくなるとわかっていても、それでも人間はどうしても人と比較して自分が足りないところに目を向けてしまう。
そんなに求めなくっても、ちゃんと周りを見渡せば十分足りているのに。
人生って「やらなくていいこと」だらけなんじゃないか
生きていくうえで必要なことって本当はほとんどないと思います。
最低限の食事をして、その分排泄して、十分な睡眠さえあれば、きっと私たちは生命を維持していける。私がブログを書くのも、学校に行くのも、大好きな本を読むのも、人とおしゃべりするのも、きっと全部全部必要ない。無駄なこと。生きていくだけなら。
だから究極に効率化を推し進めたら、私たちは本当に何もやらなくなる。
全部機械とかが身の回りのことをやってくれて、なぁんにもやらなくなる。やる必要がなくなる。
でもきっと誰もそんな人生を望んでいるわけじゃないと思う。
大半の人は、生きてく上でたくさんの「やらなくていいこと」をしている。「やらなくていいこと」を生きがいにしている人だってきっとたくさんいる。効率とは無縁の世界で。
今の生活の中でしているたくさんの「やらなくていいこと」を、効率化によって削ぎ落して削ぎ落して削ぎ落した先には、きっと味気のない人生が待ってる。
だったら私は効率化を求めない無駄だらけの人生を歩んでたいなと思う。