デジタルが嫌い
こんな過激なタイトルで始まった今回のブログ。
これを読んでいる人は少なくともデジタルを使っているはずなので、この文章を気に食わなく思う部分もあるとは思いますが、ご了承ください。
私がデジタルを嫌う理由
私たちの生活を画期的に便利にしているデジタル機器。
私自身も毎日たくさんの恩恵を受けていることは紛れもない事実です。
でも、どうしても、私はこれを好きになれないのです。
今まで漠然と「好きじゃない」と思っていたのですが、どうして好きじゃないのか真剣に考えてみようと思い、ひとまずデジタルが嫌いな理由を書き出してみました。
・精神的に疲れる
ーどんな時間でも人とつながれる世の中だから、素早い反応が求められるし、自分も人に無意識に求めている。
・ついつい見てしまって時間をとられる感じ
ー別に見なくてもいい情報が溢れているのに、暇つぶしに見てしまう。そうして自分の時間を無意識につぶしてしまう。
・実体がない
ーテキストをやり取りしている相手の顔が見えない。相手との声とか温度感とかがわからない状態でやり取りを強いられている。
・流行に乗っている感じが好きじゃない
ーなぜか流行に乗りたがらない自分がいます(笑) これだって最近みんながやっているのはnoteだけど敢えてはてなブログを使っている。ひねくれているんですかね?(笑)
・情報量が多すぎる
ーライターをやっていて切実に感じるのが、情報が多い割に信じられる情報というのが本当に限られた存在であるということです。
自分なりにデジタルを駆使した1年間
こんなデジタル嫌いの私ですが、大学に入ってからの1年間、自分なりにデジタルを受け入れる試みは一応してみました。
思えば小学生くらいのころから母親からよく「パソコンは使えるようになっておきなさい」と言われていました。
当時から私のデジタル嫌いは始まっていたので、「また言ってる。別に今から慣れなくったって、大人になったら使えるようになるよ。もし使えなくてもなんとかなるでしょ。というか私が大人になるころにはポストPC時代が到来しているから、今パソコンの勉強なんかしても結局意味がなくなると思うな。」などと心の中で反発していました。
しかし高校3年生の冬、大学受験に合格した私は危機感を覚えました。
「まずい、私本当にパソコンで何もできないぞ」
ポストPC時代が来るどころか、大学の課題のほとんどはパソコンで作成しているという話を聞いて、私は自分のスキルのなさに大きな不安を抱きました。このままだと、大学生活かなり苦労するぞ、と。そのため合格した翌週にはパソコンを買って、まずはカタカタとキーボードを打つことに慣れることから始めました。
入学してみると、やっぱりパソコンは必須の世界でした。
課題をやるにも、プレゼンの資料を作るにも、誰かと連絡を取るにもパソコン。今ではライターのお仕事をするときにも、この文章を書いているときにも使っています。
思い返してみると、あのタイミングで多少なりともパソコンに慣れておいてよかったと感じています。タイピングのスピードが格段に上がったし、それなりに使い方も体得できました。
出来ないことができるようになれば、多少なりとも楽しくなります。確かにできなかった頃よりはデジタルに対する嫌悪感も減ったように思えますが、やっぱり好きになれないままです。
自分がパソコンを操作している今この時間が苦痛なのです。こうした作業をやっているくらいなら、誰かと話したり、外に出て日向ぼっこしたりしたいと思わずにはいられません。
私が求めているのは「実体」
先ほど私があげたデジタルが嫌いな理由の中でも、最大の理由が「実体を感じられないこと」だと考えています。
相手の顔が見えないというのもそうなのですが、顔というより対面だと感じられる温度感みたいなのがデジタルでは感じられない。
会話しているときの微妙な間とか、少し緩む表情とか、言い淀む感じとか。こうしたものがあるから伝わるものって絶対にあるし、対面の会話における「ゆらぎ」の部分って会話に必要なものなのに、デジタルだとそれが伝わってこない。
現代ではビデオ会議とかがかなり簡単にできるようになり、その性能も申し分ないけれど、それでもやっぱり私は会って話したい。相手との会話において「ゆらぎ」をくみ取って話したい。「実体」を感じていたい。
デジタルを使うたび、そう思わずにはいられません。
圧倒的笑顔
ある農家さんのところでお手伝いした日のことです。
そのお家には小学校高学年くらいの男の子と、その友達が遊びに来ていました。
私たちがお昼ご飯を食べている間、少年たちはほとんどの時間をゲームをして過ごしていました。大学生側も食後にスマホを触っていました。自分も触っていました。
お手伝いの後、少年たちは「缶蹴りやろうよ!」と私たちを誘ってきました。あとから先輩から聞いたのですが、この農家さんのところに来ると、お手伝いだけではなく彼らと遊ぶのもお約束だそう。
久々にちゃんと体を動かして遊びました。
缶蹴りでは、大人げなく物陰に隠れて、隙をついて、全力でダッシュして思い切り缶を蹴る。サッカーではボールが来るたびにキャッキャ騒いで、うまくボールを蹴れないでじたばたして、どうしようもなく笑えてくる。終わった後、仕事の疲れと相まってとてつもない疲労感と心地よい充実感を感じていました。
その帰り道、ふとさっきまで遊んでいたことを振り返ってみると、みんな圧倒的笑顔だったことに気づいたのです。
スマホに触れているとき、ゲームに熱中しているとき、きっと人はあの笑顔を再現することはできないと思います。自分のことを振り返ってみても、画面を見ているときってなんとなく顔がこわばっているし、肩に力が入っているし、目に輝きがない感じがします。
私はもっと缶蹴りをやっていた時のようなあんな笑顔で生きていたいし、自分の周りの人にもあんな笑顔で生きていてほしい。
おわりに
整理しきれたかどうかはわからないけど、缶蹴りとサッカーを子どもたちとしたとき「この笑顔こそが、デジタルとの一番の違いだ!!」と強く感じました。
その子たちの笑顔を見る前からこの文章を書き始めていたのですが、あれを見てから格段に書きたいことが明確に見えてきた感じがします。
それに気づけただけで、今回この記事を書いてよかったなと思います。