中途半端な感情をうろうろ
この前のイベント
1つ前の記事で食と農林漁業アワードの懇親会に参加したことについて少し触れたのですが、今回はそれについてもう少し。その懇親会は結構大規模に開催されていて,、会場にはおそらく農業に興味のある大学生が100人くらい集まっていたんじゃないかと思います。
多分、1年前の私なら、出来るだけ多くの人に声をかけて、自分にとって有益な情報を出来るだけ多く集めようと頑張って、たくさんの人と知り合いになろうとSNSアカウントとかいっぱい交換して、みたいなことをやっていただろうなぁと思いました。思ったってことは今回はしていないんですよ。ただなんとなく近くにいる人とおしゃべりして、ちょっとお腹すいたら料理取りに行って、アカウント交換もほとんどしないで、ぼんやりと人の話を聞いてその場の調子に合わせていただけ。もちろん農業に興味のある人ばかりの交流の場ですから、みんないっぱい話しかけてきてくれるし、話もあうし、積極的な人は名刺配り歩いて、すごい人のところにあいさつしに行ったりしたりしてて。でもそんな人を横目で見ながら、頑張って人に声をかける意欲とか、熱意とかそんな感じのもの渇望する心みたいなものをどこかに置いてきちゃったな、なんて感じたり。「あれ?私ってこの雰囲気の場所でこんな消極的な人間だったっけ?」なんて思ってしまうくらいに。
それはきっと今に満足しているから
今、特に生活に不満もなくて、人間関係も基本的にはうまくいっていて、大学にいる数少ない友人たちと、私をかわいがってくれる先輩と、休日に会いに行ける農家さんと、booxメンバーとで、私の世界って完結しちゃって、これ以上他に欲しているものがないんです。きっと1年前の私は何かに飢えていて、必死でやりたいものを見つけようとしていて、自分を奮い立たせてくれるような仲間を見つけたくて、とにかく何かを必死にやろうとしていた。多分ガチガチに肩に力が入った状態で毎日を過ごしていた。
でも私が進みたいのはこれだというものを見つけて、近くに自分が大切にしたい人がいて、もうそれだけでお腹いっぱいというか、それ以上を求めなくていいんじゃないかな、なんて思ってきてしまうわけなんです。
中途半端な感情をうろうろ
でも今の私って、多分一番中途半端で。いっぱいいろんな人と出会おう、繋がろうとしていたかつての自分は外側に針が降り切れていて、もし内側に振り切るならもっと思い切って中にこもった方が良くて、どっちにもなれないで中ぶらりんな私。
なんとなく心地よい時間を過ごしながらも、どこかで「本当にこれで学生生活終わらせていいんだっけ?」と疑問を持ちながら生きていて、「でも結局、今しあわせならそれでいいんじゃないか」という結論に落ち着いて、またそこから何日かして「やっぱりこれでいいんだっけ?」と感じてしまう。そんな葛藤をしながらも、やっぱり結局今が幸せだから、これ以上、交友関係を広げたりスキルを身につけたり何かを探したりすることもなく、本当に中途半端。
そんなわけでもう少し踏み出す決意を
大学2年生になってからこんな中途半端な自分について考えることが増えてきました。1年生の時は、とにかく出会いを求めて、成長を求めて、経験を求めて、たくさんのことに挑戦し、失敗し、忙しすぎて、心の余裕がなくて、いろいろうまくいかなくなったり、目まぐるしい日々を過ごしていました。
でも2年生になってからというもの、大学での振舞い方も要領を得て、アルバイトもだいぶ減らして、自分の趣味に費やせる時間が増えたり、大切な人と過ごす時間が増えたり、よく言えば「心豊かな休まる日々」を、言葉を変えれば「成長意欲のない日々」を送るようになりました。こっちの方が精神的にとても楽なのは事実です。でもやっぱりこのままじゃ終われないから。そうしてもう一つ、ゆるゆるした日々の中でやってみたいと思うものを見つけることができたから、来年春から動きだそうと思います。
半年間、東京でインターンをして、その後また半年オーストラリアでWWOOFをしてこようと思います。
宣言してしまったからには、もうやるしかない。(インターンの選考に受かった時点で腹は括れていましたが)今までの生活と180度変わったものになってしまうけど、このぬるま湯のような居心地のいい空間を出ていくことになるけど、でももう決めたことだから。楽しみ半分、不安半分、+αで語りつくせない感情も。
でも踏み出そうと思います。
「現場」に本気。
というタイトルで、つくば学生農業ヘルパー(通称:農ヘル)の代表が農林漁業アワードのファイナリストの舞台でプレゼンをしました。結果は惜しくもアワードを逃してしまいましたが、私にとって非常に考えさせられるプレゼンとなりました。
そもそも農ヘルってどんなことしてるの?
私はいろんな人から「サークルとかバイトは何してるの?」と聞かれるたびに「農業しているんですよー」とニコニコしながら答えます。しかしながら、私が所属している農ヘルってどんなことをしているのか、今まであまりちゃんと人に説明してきたことがないように思われます。なので、このプレゼンで考えたことを書く前に、ちょこっとだけ農ヘルの説明を。
農ヘルは筑波大学内の有志の学生団体で、アルバイト兼サークル、みたいな独特のポジションです。農ヘルという団体自体が14の農家さんと契約していて、ほとんど毎日のように農家さんからの派遣依頼はあるので、基本的にメンバーは行きたいときに畑に行くことが出来ます。でも行ったからには8時から17時、1時間昼休憩をはさんでしっかり8時間あくせく働きます。(ちなみに今週は金土日の3連勤です)そうしたシフトの調整(農家さんから依頼を受けて、人数を調整して、学生に指示する)は団体の代表さんがやってくれています。そして大きなポイントがボランティアではなくちゃんとお給料をもらうことが出来ます。
この仕組みのすごいところ
たくさんありすぎて言い尽くせないのですが、1つ目はちゃんとWIN-WINの関係が築けていること。農業やってみたいとかアルバイトに入りたい学生と、人手が欲しい農家さんとの需要と供給がちゃんとマッチしていることです。学生は産業としての「農業」、つまりは現場の「農業」に触れることが出来る、触れるというよりもそうした産業の一端を担うことが出来ます。農家さんは欲しいときに若い労働力に頼れることです。一般的に研修生という制度が農業界にありますが、研修生は一定期間研修を終えたら、独立するなり実家を継ぐなりして研修先の農家のもとを離れていってしまいます。ですがこの団体は学生が卒業していってしまっても、年度が替わればまた新しいメンバーが入ってきてくれるので、安定的に人手を確保することが出来ます。しかも作業に来る学生は全くのド素人ではなく、ある程度農業の知識や経験そして興味のある若者たち。これは農家さんにとっても大きなメリットになっていると思うんです。
2つ目はいろんな農業を体験できること。つくば市の農業は多種多様です。少量多種栽培、ハウス栽培、露地栽培、有機栽培、慣行栽培、個人経営、法人経営、機械化、手作業、稲作…農業の在り方は本当にたくさんあります。ある一つの農家さんのところだけに行っていたら、他の農業を知ることは出来ないし、「農業を知る」という観点でいえば、この仕組みに勝るものをないんじゃないかなと思っています。
3つ目は日常に農業を取り入れることができる点です。正直、私は農業に無給のボランティアとしてこれほどの時間を労力を割ける自信はありません。大学生、時間はあるとはいえそんなにお金はありません。でも農ヘルなら自分の好きなことをやりながら(私の場合、ではありますが)ちゃんとお金を稼げるんです。それだから頻繁に畑に行くことが出来るんです。
食と農林漁業大学生アワード発表を聞いて
11月2.3日に食と農林漁業大学生アワードというイベントが開催されました。全国から書類審査を勝ち上がってきた、第一次産業に関わる5つのサークルや学生団体が集結し、自らの団体についてプレゼンをするというものです。私は登壇者ではありませんでしたが、農ヘルの補助役としてリハーサルから本番までをサポートさせていただきました。
全国各地で活動しているいろいろな農業系サークルの発表は、面白そうな活動内容ばかりで、聞いているだけで楽しいものでした。農業をビジネスの観点から見てマネタイズする、いろんな農村に出向いてボランティア活動をしたり地域活性のお手伝いをする、自分たちで田んぼを持って稲作をする、自分たちで豚を肥育して出荷して食べるところまでをやってみる、こどもたちに食育の授業をやってみる。どれも違った角度から、自分たちの視点を大切にして、活動に携わっていることが良く伝わってくる発表内容でした。
これまで農業ヘルパーとして、他の第一次産業に関わる学生の話を聞いたり交流する機会が全くなかったため、会場では気づかされることがたくさんありました。大学生という立場でこんなに地域の人と密接なかかわりあいが出来るんだとか、私も食育の授業とかやってみたいとか、こんなどろどろになるようなきつい作業で感想として「楽しい」が真っ先に来るんだなとか、本当にいろんなことを考えました。でもそれよりなにより、一番思ったのが「私たちが一番本気だ」ということ。(他の団体に喧嘩を売っているつもりはありません。素直な感想であるためお許しください)
「本気」だったんだ
この会に参加して、初めて「私、農ヘルに対して本気だったんだぁ」ということに気づきました。それはリハーサルでプレゼンの内容を詰めたり、そのあとのこのイベント参加者の懇親会で話したり、当日各団体の発表を聞いたりしている中で。今までずっと、私の中の農ヘルの立ち位置って「ただのアルバイト」とつもりだったのですが、本当はもっともっと重い意味を持っていたんだということを初めて自覚することが出来ました。
リハーサルと本番の2日間でずっと胸に抱いていたのは「私たちは農家さんの片腕としてプロ意識を持ってやっているんだぞ」という誇り。そんな団体、他にはないんです。私たちだけのユニークな取り組みなんです。お金をいただくというのはそれに見合った価値を相手に提供できているということ。ボランティアとしてではなく有償で農業に関わるということは、責任を持って農家さんの仕事をサポートするということ。だからどんなにきつい作業でも、農家さんの前では大丈夫なふりをするし、農家さんが少しでも楽になるように効率の良さを常に考える。私の中で農業の入り口は「楽しい」よりも先に「本気」が来ていたんだということ。
そうした誇りを持って「本気」で私は「農業」に関わってきたんだ今まで。そしてこれからも。
文化人類学
大学2年生ともなると、そろそろ自分の専攻を決めて、なんとなく卒論のテーマとかを決めて、担当の先生と相談して、、、という段階に来てしまうみたいで、そんな制度をきっかけに自分がどんな卒業研究をしていきたいのかなんてことを、最近ぼんやりと考えています。
文化人類学との出会い
高校2年生の秋(早いものでそれからもう3年が経っている…)、筑波の学園祭に来て、この広々としたキャンパスを気に入り筑波大学を目指そうと思い立ちました。その中でどんな分野に進みたいかなと大学のパンフレットをペラペラめくりながら考えたときに、真っ先に目に飛び込んできたのが、現在私が在籍している比較文化学類(以下、比文)でした。その日からずっと比文に来ようと思いながら受験勉強に励んでいました。
高校3年生の秋、推薦入試で受験しようとしていたため志望理由書を書くことになりました。そこで私は何で比文に惹かれているのかな?比文でどんな学問ををしたいのかな?と考えたときに出会ったのが文化人類学でした。比文のパンフレットの文化人類学コースの説明を読んだとき、文化人類学のことを何も知らない私でしたが、多分私がやりたい分野ってこういうことだ!と直感的に思いました。
ちなみにここまでずっと「文化人類学ってなんぞや?」と思いながらも読んでくれている人にちょこっとだけ説明すると、文化人類学とは世界中のさまざまな地域の文化や民族を研究対象として、「人間とは何か」を問いただす学問です。自分とは異なる生活文化を持つ地域に一定期間調査に入り、現地の人たちの生活に加わりつつ(この行為を「参与観察」といいます)その地域の特徴的な点、自分が持っている文化とは異なる点を記述し、民族誌というものにまとめます。これが文化人類学の概要です。
自分とは全く違う文化を持つ土地に入り込んで、一緒に生活して、研究を進めていく。そんな学問分野があるのかと少し驚きつつも、きっと異文化を理解するってこういうことなんだろうなと、高校生の時に私は思ったのです。それから文化人類学こそがみんなが平和にそして幸せに暮らしていける社会を作るために必要な学問なんじゃないか?と考えました。そして私はこの学問を大学4年間をかけてやりたいと強く思ったのです。
大学で実際に講義を受けて
大学に入学してからは、文化人類学以外にもいろんな講義を受けました。文学、哲学、地理学、宗教学、開発学など。どれも話は面白く、知的好奇心は大いに満たされましたが、やっぱり私は文化人類学のお話が一番好きでした。(おそらく話をしてくださる教授が好きだったのかもしれませんが、まぁそれはそれでいいでしょう)これまで文化人類学がどのような変遷をたどって今日まで発展してきたのか、これからどんな方向に向かっていくのか、どんな研究事例があるのか、いろんなお話を聞くたびに、自分の知らない世界がまだまだたくさんあることを思い知らされ、ますますもっといろんな文化に触れてみたいと思うようになりました。
文化人類学への想いは変わらない一方で、フィールドについては考えを改めるようになりました。入学当初は海外にフィールドを持って研究したいと思っていましたが、大学生になって日本各地いろいろな地域を旅行して、自分の知らない日本をたくさん発見して、もっとこの国のことを知りたい、思うようにもなり、必ずしもフィールドは海外じゃなくてもいいと思うようにもなりました。
モヤモヤが多い学問
しかしながら大学で文化人類学に関する講義を受ければ受けるほど、もやもやは大きくなっていきます。特にこの秋学期から受けていいる講義では、文化人類学の在り方について考えさせられることが多いです。
その講義は、まず講義の前に文化人類学者が書いた論文を読んできて、その論文に対する自分の考えをある程度固めて臨み、講義の時間は5~7人くらいのグループになり意見交換をします。そうした意見交換の場で、私と同じように文化人類学に興味を持っている学生の考え方を知ることが出来て、改めて自分はこの学問のことをどう考えていてるのかを見つめ直す良い機会となりました。
個人的なものとしては
そもそも私はどんなテーマで卒業研究をしたいのか?
どこを自分のフィールドとして取り扱いたいのか?
学問全体に対する問いとしては
フィールドに入るということは、少なからずその土地に何らかの影響を与えてしまうことであり、それは文化人類学者として正しい姿なのか?
学術的に記述するためにはなるべく主観を排してその土地のことを記述するべきなのだけれども、完全に主観を排することは出来ないから、その折り合いはどうつけるのか?
まだまだ知識不足で、この学問においてはわからないことだらけ。考えれば考えるほど問いは浮かんできます。
それでも私は文化人類学を選ぶ
もやもやはどうやったって払拭できないけど、それでも私はこの学問を研究したい。それはやっぱりきっと、文化人類学は人々の「しあわせ」につながると思うから。せっかく大学生という自由に自分の興味があることを出来る期間があるのなら、最後にちゃんと学問研究をしようと思っています。
ここから2年間、きっと先人たちもずっと感じてきたもやもやを私も抱えながら研究するんだろうな。卒業研究なんてまだまだ先とか思っていたら、きっとあっという間にそんな時期になっているんだろうな。
わからないことを人に聞く
とっても賛否両論がある考えだと思うので、反対意見があることも承知で今回の文章は書いていきます。
私はわからないことは何でも人に聞いてしまいます。それについて考えたこと。
相手の時間を奪っている
という意見の方。結構多くいます。特に優秀な方が多い。確かに私が誰かにわからないことを聞いている間、その人は何らかの作業をストップせざるを得ないし、それによってその人の作業効率を下げてしまうことになる。
私はこの意見を聞いたとき、今までの自分の行動を恥ずかしく思いました。基本的にわからないことはすぐに人に聞いてしまう性格なので、これまで自分はどれほど相手の時間を奪ってきたのだろう、と。
でも後からよくよく考えてみると、意外と反論の余地はあるんじゃないかと思えてきました。まず1つ目、その人自身もその質問によって得るものはあるかもしれないということ。なんとなく分かったつもりでいて、でも改めて人から尋ねられると答えられないものって案外多いですよね。それでそのことに関して調べてみたり考えてみたりするきっかけを得られたりとか出来ますし。
そして2つ目、もしかしたらその質問がきっかけでコミュニケーションがスムーズになるかもしれないということ。お互いの知識レベルをわかっておくことって、一緒に何かする上で非常に大事だと私は思っています。基本的に私は自分よりも優秀だなぁと思う人と、何かしらのプロジェクトをやっているので、そのメンバーの中で私が一番いろいろな面において知識不足であることは予めわかっている状態で始まります。そんな状況に甘えるわけじゃないけど、その人たちの会話の中でわからない言葉が出てくればなるべく聞き返すようにしています。それは、その人たちが当たり前に使う単語って、意外と他の人は知らなくて、でも意外と知らないってことをそのことばを使っている人はあんまり知らないんですよね。わからない方が必死で追いつけよという意見もありますが、自分の能力を相手に知ってもらうことも、これはこれで社会の中を生き抜く一つのスキルなんじゃないかと思っています。
もっと正確な情報をGoogle先生は知っている
そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。確かにGoogle先生は私たちの脳よりもはるかにたくさんの知識を持っていて、そうした情報をあの手この手でわかりやすく私たちに教えてくれて、それだから私たちは彼のことを現代人の必須アイテムとだと一定の信頼を置いています。
でも本当に欲しい情報が載っていないときも度々あります。例えば彼は旅先の本当の楽しみ方は教えてくれません。人気のおしゃれスポットとか、おいしいごはんやさんとかは教えてくれるけど、道を教えてくれる親切なおばさんがどこにいるかなんて検索したって分からない。自分で道端で出会った人を見極めて声をかけるしかないのです。
そしてその情報が正しくないことだってあります。この前の土浦花火の時もそう。花火が一定期間中断していた時、twitterにはたくさんの「土浦花火 中止」の文字が並びましたが、結局30分後には再開していました。ネットの情報は早い分、精査されていないから間違っている情報が流れちゃったりする。それがあったいう間に広がるから、その情報でネット上が騒がしくなるから、みんなはそれを本当だと信じてしまう。
そんな世界だからこそ、私は人を信じたい
再三ここでも言っていますが、私は情報社会に辟易しています。今すぐにだってネットがなくなっても困らないと断言できるくらいに。出来る限り、ネットに載っていることがなくて、今目の前にいる人の話が聞きたいし、その人が言うことを信じたい。こんな世界だからこそ。
生きているものを食べて、私たちは生きている
私たち人間のほとんどは毎日なんらかの「生」を食べて生きています。
お米も野菜もお肉もお魚も、みんなみんな生き物。
多くの人は日常生活の中でその事実を思いだすことはありません。目の前を流れるお寿司を見て海を思い浮かべたり、コンビニの冷蔵庫にあるカット野菜が土の中や上で育ったものだと認識したり、鉄板に乗ったステーキは数日前まで私たちと同じように四肢を動かしていた生物だったということを思い出したり。そんなことを食べるたびに思っていたら、気が狂ってしまうかもしれませんね。
でもそれが事実なんです。
畑にいると、野菜からあふれ出す生命力を感じることが出来ます。食べ物たちは生きていたという事実を、思い出させてくれます。 土を押し上げて出てくる芽から、勢いよく伸びていく枝や蔓から、鮮やかに存在感を放つ花から、剪定や収穫するときに切った断面のみずみずしさから、そして朽ち果てていく姿から。「生」を直接感じることが出来ます。
そしてまた、田んぼや畑に行くと、生産過程にはたくさんの生物が関わっているということを知ることが出来ます。先日稲刈りと籾摺りを終えた田んぼで、藁を束ねて結んでいく作業をしていました。たくさんの虫たちと、カエルと、トリと一緒に。いっぱいいっぱい生き物がいて、こうした生き物が生きているからお米は作られていくんだろうななんてことを考えてたら、なんだか今までにないような気持ちになりました。
私たちは自然の中で生かされているんだなって。私たちが生きているんじゃなくて生かされているんだなって。
これを感じる機会が少ない世の中が悲しい。
私も農業をやるまでは、自分が毎日食べているものがどんなふうに作られて、どんなふうに私たちのもとに届いていたのかを、全くと言っていいほど知りませんでした。それは私にとって、そしておそらく私のように都市部に住んでいる人たちにとって、1次産業というものがあまりに遠い存在だから。スーパーに行けば、きれいな状態のお野菜が並んでいて、調理しやすいようにもしくは調理しなくても食べられるようにお肉やお魚が加工されている世界だから。生産の現場と食卓があまりにも断絶されているから。
今の小さい子の中には鮭の切り身が海を泳いでいると信じ込んでいる子もいるみたいです。でもそれは笑い話にはなりません。それくらいに生産の現場と食卓が離れてしまっているということを直接的に表しているエピソードだから。
小さいころの経験とか記憶って、印象が大きければ大きいほど後々残るんだろうなと思っているために、だからこそ小さい子に畑に来てほしいなと思います。それは私ができなかったことでもあるから。先日もこどもたちのさつまいも収穫のお手伝いをしてきたのですが、「この子たちが大きくなっても、この体験を忘れないでいてくれたらな」と思わずにはいられませんでした。そうした体験が記憶の片隅にでもあれば、「私たちはたくさんの命に生かされている」という思いが少しでもあれば、毎日の食事を大切にしようと思えるようになると思うから。
そして今。野菜だけじゃなくって他の食べ物ってそうやって作られているのかなということが気になっています。
先日は鴨農家さんでアルバイトをさせてもらって、食肉加工の作業を初めて経験しました。あれだけ大量のお肉を見ることは、とっても貴重な経験でした。正直作業の初めの方はお肉独特のぬめぬめした気持ち悪さをずっと気にしていたのですが、考えてみればこれまで私はたくさんのお肉を食べてきて、そうしたお肉はすべて誰かの手によって解体され、加工されて、私の胃の中に納まっていたんだという、今まで目を伏せていた部分を考える機会となりました。
実際にやってみないとわからないことがある。考えないことがある。想像では補えないものがたくさんある。
お米とか、お肉とか、お魚とか。とにかく何でも知りたい。吸収したい。たくさんの生産の現場を見てみたい。
そんなことを日々思っているので、もしそんなご機会をお与えてくださる方がいらっしゃいましたらメッセージ下さい!!
ボランティアとか支援とか
尾道を姉と歩いていた。
駅前で24時間TVの募金活動をしていた。
姉はその集団から遠ざかるようにして歩く。
「なんか、ああいうかんじの苦手なんだ。何もやってない自分が後ろめたい感じもするし、かといって募金を入れるのもなんかモヤモヤする」
そんな言葉から考えた、私が思うボランティアとか支援とかのこと。
私は高校生のころからなんとなく「国際支援の道で働きたい」と思っていた。大学受験が終わって自分なりにそのことについて探求してきたつもりだ。交流会に行ってみたり、団体を立ち上げてみたり、実際に渡航してみたり、自分の中でいろいろ悩んだり、、そんなことしているうちに同時並行的に農業と出会って、その生き方に魅せられて、私は国際支援の道に進むことを考え直し、今は農業をして生きていたいと思っている。だから決して、方向転換した理由は「なんだ、途上国の人たちって支援とかなくても日本より幸せそうじゃん」とか「国際支援に出来ること限界あるよね」そういうものではなくて、単にそれよりも心からやりたいと思えることに出会ってしまったからというだけであって、今だに国際支援に対して関心はある。
私の身の回りにも一定数、国際支援に積極的に取り組みたい人と、できればそれに関わりたくない人がいる。社会的にいいとされていることを批判するのって、あまり大きな声で言えるものではなくて、だからこそ出来れば関わりたくない人の意見というのは近くに転がっていることが多い。今回の姉の発言みたいに。
そんなボランティアとか支援とかに関するいろんな人のもやもやをかき集めて、私なりに回答を出したいなと前から思っていて、これを機会にちょっと自分の中の考え方を整理してみようかなと思って書いてみる。
募金の透明性。
自分が募金したお金が、どこでどのように使われているのか、私たちは想像することが難しい。特に赤十字とかUNICEFとか大きい団体であればあるほど、そのお金がどのように使われているかどうかが見えづらい。でもそれなら自分が信じられる相手にだけ募金をしてみればいいんじゃないかと思う。例えば、私の場合は身近に国際協力とかやっている人が何人かいて、そういう人にその活動に対する応援の気持ちも込めて募金を渡したり、街頭で一度断ったのにもう一回募金を頼まれたことがあってその熱意に負けて募金をしたりしたことがある。
後ろめたい。
支援者が支援するために努力している姿は社会的に見て美しいものだし、自然と目に入ってきてしまうもの。だからそれを目にすると自分は何もしていないということを再確認させられ、そう思わせてくる相手自体を少しだけ憎んでしまう。相手はやっていて自分はやっていないことに対してうしろめたさを感じてしまうのは、自然な心理だと思う。私も街頭募金をスルーしたり、国際協力の道からちょっと退いたりしてみて、後ろめたい感じはある。でもそうした人と自分とをちゃんと切り離して「あの人と私は全く別の人間で、やりたいことも考え方も別なんだから」を割り切れれば、そうした感情も次第に収まるんじゃないかと思っている。
表だって支援をしている人に対する猜疑心。
そもそもあなたが街頭に立って募金を集めるより、普通にバイトしてそのお金で支援した方が額は大きんじゃないの?街頭に立っている人はいい人ぶりたいだけなんじゃないの?そんなことを感じる人も周りには一定数いる。(特に私の身内には多い)確かに1日街頭で募金を集めるのと、バイトして稼ぐのを比べたら後者の方が金額的に集まるような気がする。後者に対してはちょっと物申したいことがあって、国際協力の分野に進む人の中でそんな中途半端な気持ちでやっている人って、ほとんどいないということをちゃんと知ってほしい。いいカッコしたいからという理由で出来るようなことではない、あんなに大変なこと。むしろ人からそう思われてしまうんじゃないかっていう心の葛藤を抱えながら活動している人の方が多いように思える。
こんな小さなことで世界は変わるわけない。
世界にはたくさん貧困とか病気で苦しんでいる人がいるのに、私がたった100円募金しただけで世界は変わらないと思ってしまうこともある。(これも身内に多い意見)確かに世界は変わらないかもしれない。でも、もしかしたらこんな小さな力で少しでも喜んでくれる人がいるかもしれない。だったら1個100円のアイスをちょこっと我慢して支援に回してみてもいいんじゃないかと思ってみたり。みんながみんな変わらないと思っていたら、絶対に状況が好転することはない。でも少しでも良くなるかもと思えたなら、物事はいい方向に向かうんじゃないか。
途上国の人って支援とかなくても日本人より幸せそうに生きてない?
途上国に行ったことがある人の多くが感じること。途上国に人たちよりよっぽど日本のサラリーマンの方がうつろな目をして歩いている。日本の方が物質的に豊かとされているのに。かといって途上国の人がキラキラした目をしているからと言って、本当に物質的に困っていないのかと言われればそれは違うのだと思う。たくさん困っていることはある。
人の意見を真っ向から否定するようなことを、もしかしたら言ってしまっているかもしれない。でもこれが本当に私が思っていることだから。そして私が誰かに伝えたいことだから。だからちゃんと言葉にする。
私はどう働きたいのか
ひとりで時間を過ごしていると、よく考えるテーマがこれだ。
「私は将来どうやって働きたいのか」
この夏も北海道の小さな田舎町で茹でトウキビを売りながら、そんなことばかり考えていた。こんな大自然の中で生活していくのもありだなとかも思うけど、北海道寒いし、近くに仲のいい友達もいないし。
今の世の中、たくさんの選択肢がある。そして昔よりも王道(おそらく大学を出て、企業に勤めて終身雇用みたいな、もしくは女性であれば寿退社して子育てするみたいな)から逸れることが許容されやすい世の中になっていることは確かだし、実際に本当に自由な人生を選択している人を私はたくさん知っている。
だからこそ、迷うのだ。選択肢が増えるというのはいいこととされているけど、ある意味苦しいことでもある。自分の責任で人生を切り開かなければならないから。私たちの世代は、たくさんある選択肢から自分の納得のいくものを自分の手で選び取ることを強いられているとすら言える。
キャリアの話とかになると、大抵こういう意見の人がその場に一人はいる。
「大学生活、バイトとサークルだけで時間をつぶすのはもったいない」
そういう人は大抵、インターンをした方がいいとか海外に行った方がいいとかそんなことを口にしている。でも私はそんな意見に振り回されてしまっている自分こそがもったいなく不自由な感じがしてならないのだ。別にその人の意見を真に受けて海外に行っているわけではない。私は自分の好奇心と直感を頼りにやることを選択しているつもりだ。
でも少なからずその言葉が私の耳に入っている以上は、無自覚の内にその言葉の影響を受けてしまっているのではないか。海外に行ったり、インターンをしたりして、自分のできなさ加減だとか世界の不条理さだとか、本来なら出来る限り目を向けたくないことと向き合わざるを得ない状況に自分を立たせて、陰鬱な気持ちになって、本当に大学生活それで楽しいのかとも思う。もっと何も考えず気楽に遊んで楽しく4年間過ごしてもいいんじゃないかって。むしろ、大学生というこの自由な時期に、将来のことで頭がいっぱいなのももったいないし、そっちの方が不自由なんじゃないかとすら思う。
不自由ながらも、ここまで思考を煮詰めてしまっては思考していない状態に戻ることは出来ない。だから私は旅の途中でも将来どう働くかについて考えてしまっていた。
「将来こうありたい」という理想像
ひとりで働きたい。
安定収入は欲しい。
太陽の光を浴びていたい。
家族の時間をちゃんと取りたい。
逆に「こうはなりたくない」という反面教師の像
デスクワークはしたくない。
心を空っぽにして働きたくない。
出来ることなら人の管理下にはいたくない。
でも人を雇う立場にはなりたくない。
空が狭い場所で働きたくない。
毎朝満員電車には乗りたくない。
多分まだまだ粗削りなのだ。働くことを考えるにはまだ十分に情報も集められていなくて圧倒的に経験も足りていなくて、考えを固めようと思っていても固められるような段階じゃないのだと思う。やりたいことと、やりたくないこと、ちゃんと自分がその理念を実現できるような導線を引けていないのだ。
でもとりあえず、大学2年生の夏ごろはこんなこと考えてたんだなという記録として残しておく。